2015.03.28 Saturday
当地もここのところの暖かさに、一気に春めいて来ました。先週までは聞くことの出来なかったウグイスの囀りも盛んに聞くことが出来ます。種々の小さな草花が彩りを添えてくれています。心が弾むような気分です。
自然のものは神が定められた摂理に従って、神に栄光を帰します。同じ神によって造られた人は、どうして罪に染まってしまったのでしょうか。罪とは神に背を向けることです。もちろん犯罪も罪です。人の最初の罪は、天地創造の時にまで遡ります。神は地の埃から人を造られました。これがアダムです。そしてアダムのあばら骨からエバを造ったのです。
人の最初の罪は、神が食べてはならないと言われた、食べたら死ぬと言われたエデンの園にある禁断の木の実を食べたことに始まりです。これによって人に死が入ってしまったのです。自己中心的思考は、罪の最たるものです。人は罪に罪を重ねて行ったのです。そういった人の歴史を記した書が、旧約聖書の創世記であります。創世記に記されたノアの箱舟、バベルの塔の話は、キリスト者ではなくても、知る人ぞ知る話であると思います。
僕は就寝前に神に祈りを捧げることを日課にしています。キリスト者の多くは様々な形でいつも祈りを捧げていると思います。今日一日を省みる時、毎日のように心の内に良からぬ思いを抱いたことを思い起します。僕も日々、罪を重ねているのです。その要因はやはり、自己中心であると思います。
神から尊い命を与えられながら、神にお返しすることがない生活です。惨めと言うべきです。しかし、愛に富まれた神は、キリストを信じるが故に、僕達の罪を赦してくださるのです。だからと言って何をしても良いと言うのではありません。
キリストは、罪に染まった僕達と共に歩んでくださいます。今日は週末です。来る週は神を悲しませることのないように、またキリストが共に歩んでくださり、より良き働きに勤しむことが出来ることを願っています。
「また言われた。『人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。』<マルコによる福音書7章20〜23>
自然のものは神が定められた摂理に従って、神に栄光を帰します。同じ神によって造られた人は、どうして罪に染まってしまったのでしょうか。罪とは神に背を向けることです。もちろん犯罪も罪です。人の最初の罪は、天地創造の時にまで遡ります。神は地の埃から人を造られました。これがアダムです。そしてアダムのあばら骨からエバを造ったのです。
人の最初の罪は、神が食べてはならないと言われた、食べたら死ぬと言われたエデンの園にある禁断の木の実を食べたことに始まりです。これによって人に死が入ってしまったのです。自己中心的思考は、罪の最たるものです。人は罪に罪を重ねて行ったのです。そういった人の歴史を記した書が、旧約聖書の創世記であります。創世記に記されたノアの箱舟、バベルの塔の話は、キリスト者ではなくても、知る人ぞ知る話であると思います。
僕は就寝前に神に祈りを捧げることを日課にしています。キリスト者の多くは様々な形でいつも祈りを捧げていると思います。今日一日を省みる時、毎日のように心の内に良からぬ思いを抱いたことを思い起します。僕も日々、罪を重ねているのです。その要因はやはり、自己中心であると思います。
神から尊い命を与えられながら、神にお返しすることがない生活です。惨めと言うべきです。しかし、愛に富まれた神は、キリストを信じるが故に、僕達の罪を赦してくださるのです。だからと言って何をしても良いと言うのではありません。
キリストは、罪に染まった僕達と共に歩んでくださいます。今日は週末です。来る週は神を悲しませることのないように、またキリストが共に歩んでくださり、より良き働きに勤しむことが出来ることを願っています。
「また言われた。『人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。』<マルコによる福音書7章20〜23>