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自己中心
 当地もここのところの暖かさに、一気に春めいて来ました。先週までは聞くことの出来なかったウグイスの囀りも盛んに聞くことが出来ます。種々の小さな草花が彩りを添えてくれています。心が弾むような気分です。
 自然のものは神が定められた摂理に従って、神に栄光を帰します。同じ神によって造られた人は、どうして罪に染まってしまったのでしょうか。罪とは神に背を向けることです。もちろん犯罪も罪です。人の最初の罪は、天地創造の時にまで遡ります。神は地の埃から人を造られました。これがアダムです。そしてアダムのあばら骨からエバを造ったのです。
 
 人の最初の罪は、神が食べてはならないと言われた、食べたら死ぬと言われたエデンの園にある禁断の木の実を食べたことに始まりです。これによって人に死が入ってしまったのです。自己中心的思考は、罪の最たるものです。人は罪に罪を重ねて行ったのです。そういった人の歴史を記した書が、旧約聖書の創世記であります。創世記に記されたノアの箱舟、バベルの塔の話は、キリスト者ではなくても、知る人ぞ知る話であると思います。
 
 僕は就寝前に神に祈りを捧げることを日課にしています。キリスト者の多くは様々な形でいつも祈りを捧げていると思います。今日一日を省みる時、毎日のように心の内に良からぬ思いを抱いたことを思い起します。僕も日々、罪を重ねているのです。その要因はやはり、自己中心であると思います。
 神から尊い命を与えられながら、神にお返しすることがない生活です。惨めと言うべきです。しかし、愛に富まれた神は、キリストを信じるが故に、僕達の罪を赦してくださるのです。だからと言って何をしても良いと言うのではありません。
 キリストは、罪に染まった僕達と共に歩んでくださいます。今日は週末です。来る週は神を悲しませることのないように、またキリストが共に歩んでくださり、より良き働きに勤しむことが出来ることを願っています。
 
 


また言われた。『人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。』<マルコによる福音書72023


 
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死んでもなお生きる
 去年の日記を見ると、今年は去年より寒いようです。去年の日記には、ウグイスの囀りを聞いた。と書かれていました。今年は未だウグイスの囀りを聞いてはいません。昨年の秋、「まっさん」が終わる頃には春になると話しをしていました。その「まっさん」もあと10回ほどで最終回となります。
 そんな中で今日は、庭先で沢山の春を見つけました。毎日見ているはずの庭なのに今日まで気がつかないでいました。スイセン、ヒマラヤユキノシタ、ヒアシンス、そしてウメの花が咲いているのです。更にチューリップやユリが芽を出していました。僕が待ちに待った春の徴が手に取るようにあるのです。心躍る気分です。
 
 今年の復活祭は、45日です。復活祭の日は、年によって異なり、春分の日の後の最初の満月の直後の日曜日と定められています。今年はこの分では桜の開花も遅くなりそうなので、復活祭あたりが桜の見頃となるかもしれません。
 復活祭は、キリストの復活を祝う教会の祝日です。聖書によると、また歴史的にも未だかつてキリスト以外に復活した人はいません。復活とは甦ることです。甦ると言う漢字は、更に生きると書きます。同じ“よみがえり”でも、蘇りとは意味が違います。蘇りは、一時的なものでまた必ず死が訪れます。永遠に生きる甦りではないのです。

 僕は個人的にクリスマスより、復活祭の方が心に染み渡るものがあります。長く厳しい冬を乗り越えた生き物達の息吹の中で迎える復活祭は、命があふれているのです。キリストの復活を覚える中で、ひとりひとりに与えられた尊い命を有り難く考えさせられる時であります。
 


 
 そのときマルタはイエスに言った。「主よ、もしあなたがここにおられたら、弟は死ななかったでしょうに。けれども、私は今でも、あなたが神にお願いされることは何でも、神様はかなえてくださることを知っています」。
 イエスはマルタに言った、「あなたの弟は生き返るよ」。マルタは「終わりの日の復活の時に弟が復活することは知っています」と言った。イエスは言った。「私がその復活であり命なのだ。私を信じる者は、死んでもなお生きる。生きていて私を信じる者は永遠に死ぬことがない。あなたはこれを信じるか」。
 マルタは言った、「はい、主よ、あなたがキリストであり、世に来られることになっている神の子であることを、私は信じています」。<ヨハネによる福音書11章21−27節>
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闇から光へ

 捻挫を起してから約3週間が経ちました。目に見えて快方に向かうようには思えませんが、痛みは大分治まってきました。ようは日薬と言う事です。健康であることの有り難さをつくづくと思い知らされる時であります。健康が当たり前ではないのです。健やかな時も、病気の時も全ては神の御手のうちにあります。神はこの捻挫を通して、何かを知らしめて下さっているのに違いないと思うのです。しかし、愚かな僕には確かな答えは聞こえてきません。

 

 家の近くでマンサクの木を見つけました。2輪の花を付けていました。マンサクはかつては山野のどこにでも見られた落葉低木ですが、このところめっきり数を減らし、絶滅の危機に曝されていると言っても良いと思います。このマンサクが家の近くにあったのです。

心無い人の目に付かないようにと祈っています。マンサクが数を減らしたのは、マンサクに着く病気が原因であると植物に詳しい先生から教えて頂いています。

 

 病むのは人だけではないようです。世界を見渡す時、どれほどの人が心身ともに病み、どれほどの大地が病んでいることでしょうか。これは危機的な状況です。足元を見つめながら、欲によって破壊されつつある心の内を改めなければ、行き着く先は見えています。

今からでも遅くはないと思います。あるべき姿に立ち返ることです。そうすれば必ず神が回復を与えて下さるに違いありません。これが聖書に記された人類の歴史でもあるのです。

 

 

「苦難にある者たちの告白」
−ある患者の詩−

大事を成そうとして、力を与えてほしいと神に求めたのに、
慎み深く、従順であるようにと弱さを授かった。

より偉大なことができるように健康を求めたのに
よりよきことができるようにと病弱を与えられた。

幸せになろうとして富を求めたのに、
賢明であるようにと貧困を授かった。

世の人々の賞賛を得ようとして、権力を求めたのに、
神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるように命を授かった。

求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。

神の意に沿わぬ者であるにも関わらず、心の中の言い表せない祈りは全て叶えられた。

私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。
(訳者不明)
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時を待つ
 今日は、捻挫の再診日でした。担当の医師の話によると治るまでには、あと3週間程度はかかるということでした。と言うことは、今月いっぱいは不自由な生活をしなければならないと言うことになります。捻挫を引きずるうちに桜の花が咲くかもしれません。治療は湿布の張替えしかありませんので、いわゆる日薬です。気長に治癒するのを待つしかありません。
 教会の建屋の隅に植えてある椿も、蕾を膨らませ時の来るのを待っています。時と言うのは、過ぎてしまえばあっという間のことですが、待つ事は忍耐のいる事です。
 
 僕達はキリストの再臨の日、つまりキリストが再びこの地上にお出でになる日を待ち望んでいます。それは、キリストが再び地上に来ると約束されたからです。その日がいつになるのかは誰にもわかりません。もしかしたら明日かもしれないのです。聖書は、その日は、盗人が来るようにやってくると教えています。
 キリストの再臨の日に備えて、日々祈りを重ねて行きたいと思います。
 



 兄弟たちよ。その時期と場合とについては、書きおくる必要はない。 あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。
 人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。
 しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。
 だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである。しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。<テサロニケの信徒への手紙5章1〜8>

 
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