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ノアの箱舟

  東日本大震災以来、地震、火山の噴火などが際立つように思えます。昨日も鹿児島で火山が噴火しました。自然の営みに人が介入することは出来ません。そのすべては、天地創造の時、神が造られたものです。しかし、同じ神に造られた人は、罪に染まりました。ですから自然と人とは次元が違うと言っても良いと思います。一度自然が牙をむくと、人の手におえるものではありません。

 

 世に悪が満ち、人が罪に染まってしまった時、神は人を造られたことを悔やまれました。そして人の中で唯一、神の前に正しかった人ノアを選ばれ、箱舟を造らせ生き物の種に従って、ひとつがいづつを箱舟に乗せるように命じられました。神は、この世の悪を一掃される計画を進められたのです。

 ノアが神に命じられたことを成し終えると、4040夜、雨が降り続きました。これによって大洪水が起こり、すべての悪がこの世から一掃されたのです。折を見てノアは、鳩を放ち、外の様子を知ろうとしました。ある日、放った鳩が、オリブの葉をくわえて箱舟に戻ってきたのです。洪水は収まり、木々や草花は、新しい芽を吹いたのでした。しかしノアは、神に従順でありましたので、神が外に出よと命じられるまでは、箱舟に留まっていたのです。

 

 

 自然の中に生きる僕達は、何よりも優先して自らの命を繋ぐことを優先しているのです。

自己中心に他なりません。それによって罪が生まれ、それが神の怒りをかうことになるのです。神は愛の神でありますが、裁きの神でもあるのです。

 科学者達は、人が自然の被害から免れるために、さまざまな研究や調査をしておられます。時には自らをもかえりみない尊い仕事です。しかし自然の営みは大変複雑です。神の知恵によって造られたもののすべてを、人が知ることは無理なことです。今僕達に必要なことは、神への畏れであると思います。

 

  私があなたがたに立てるこの契約により、すべての肉なるものは、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起こらないであろう。さらに神は言われた、『これは私と、あなたがた及び、あなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々かぎりなく、私が立てる契約のしるしである。すなわち、私は雲の中に虹を置く。これが私と地との間の契約のしるしとなる。私が雲を地の上に起こすとき、虹は雲の中に現れる。虹が雲の中にあらわれる時、私はこれを見て、神が地上にあるすべての肉なるあらゆる生き物との間に立てた永遠の契約を思い起こすであろう。<創世記911節〜>

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活ける神
 奄美の海の海底に、ミステリーサークルが出現する。こんな話が、ダイバーの間で話題になっていたそうです。直径2mほどの大きさだそうです。ある時、ひとりのダイバーがこのミステリーサークルを作る張本人をつきとめました。それは、体長12cmほどのフグでした。このフグは新種でもあり、奄美の夜空の星の美しさに因んで、アマミホシゾラフグと名づけられたそうです。このミステリーサークルはその後の調査で、メスを誘い産卵をさせる場所であることが明らかになりました。生き物の世界にはよくある光景です。
 
 さて、“花の命は短くて苦しきことのみ多かりき”と言う詩があります。林芙美子女史の詩であり、彼女が色紙などに好んで書いた短詩です。女性を花にたとえ、楽しい若い時代は短く、苦しいときが多かった自らの半生を詠ったものです。人生を振り返るとき、誰も何らかの苦を背負いながら、年を重ねて来たのです。
 いけばなの世界に、“一日花”と言う言葉があります。朝咲いて、夕にはもう萎んでしまう花のことをそう言うのです。アサガオ、ムクゲ、ヒメロカリスなどが一日花と呼ばれるものです。まさに花の命は短くてとの詩に、そのまま当てはまる花々です。
 



 僕の師匠が、「御呼ばれに行って、一日花が挿してあったら、それはあなたのために挿して下さった花なのですよ。挿してくれて人の心の内に感謝をしなければなりませんね。」と教えて下さったことをよく覚えています。そして、僕はこれらの花を見る度に、心の内に思い出す聖句があるのです。それはなぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのようにして育つのかよく見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花のひとつほどにも着飾っていなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなた方はなおさらのことではないか、信仰の薄いものたちよ。だから「何を食べようか。」「何を飲もうか。」「何を着ようか。」と言って思い悩むな。』と言う新約聖書:マタイによる福音書62631の言葉です。
 
 虚しく過ぎてゆくように思える日々の流れの中にあっても、神は僕達を忘れはしないのです。苦しい日々の流れの中にあっても、神は僕達を顧みていて下さるのです。このように思えてくることで、心の内に平安が訪れます。僕達の為に、今も活きて働かれる神の言葉を心の内に噛みしめて、この世の波を乗り越えて行きたいと思います。
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100点の人生へ
 いつもの年であれば、この時期には奄美沖縄地方は梅雨入りしています。最近、マスコミから離れている僕には、どうなのか分かりません。僕のイメージの中では、梅雨と言えばカタツムリとアジサイの花です。花壇のアジサイを見てきました。そうしたところ、小さな花芽がいくつか付いていました。自然は時を待たないのです。こうした自然の動きや現象から、様々な知恵を得た先人に学びたい物が数多くあります。
 しかしこうしたことは、科学の名の下に消え失せて行くのでしょう。しかしながら科学では説明の付かない事も数多くあるのです。因みに僕は、雨の予想、或いは低気圧の接近を8割程度ですが、身をもって知ることが出来ます。僕が負わされた刺であります。
 
さて、同じ良き業を行なうにしても、親切心で行なうか、信仰に基づいて行なうかでは、0100の差があります。ヤコブは、行いの伴わない信仰は虚しいと言っています。旧約聖書の時代は、神の律法を堅く守ることが神に正しい人間として認められることとして、信仰者達は律法を固く守ってきました。これを行動義認と言います。ただこの行動義認には欠点があるのです。それは、信仰心がなくても律法を守ることが出来ると言うことです。いわば僕達が、形式的に社会の規則を守るようなものです。

 
 

 しかし僕達は、イエスを神の子と信じる信仰によって、神の前に正しい者とされた者なのです。これを信仰義認と言います。何をするにしても信仰と言う礎の上に行なうのでなければいくら良い業に励んでも、単なる優しさ、慈善でしかありません。これでは信仰者としては0であります。先にも記しましたが、行動を伴わない信仰はないのです。このような僕達の行いによって、僕達の信じる神が讃えられるのです。
 人間の主な最高の目的は、神の栄光を現し、永遠に神を全く喜ぶことです。僕達信仰者は、自らが褒められることよりも、神が褒め讃えられることに喜びを感じるのです。生きるにしても、死ぬにしてもすべては神のためであるのですから。神が僕達をそのような思いへと誘い、支えて下さる事を祈ります。
 
あなた方も互いに相手を受け入れなさい。<ローマの信徒への手紙157
弱者を虐げる者は、造り主を嘲る。造り主を尊ぶ人は、乏しい人を哀れむ。<箴言1431
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まことの神
 
 青春と言う言葉があります。元来、青春とは、春を表す言葉であります。古代中国の五行思想では、「春」には「青」が当てられています。同様に、「夏」を「朱(赤)」、「秋」を「白」、「冬」を「玄」に当て、それぞれ「青春」、「朱夏」、「白秋」、「玄冬」と言います。これらは季節を表す言葉であり、これが転じて、日本では特に「青春」について人生の中で若く未熟で、しかしながら元気で力に溢れた時代を指すようになったのです。詩人である北原白秋も、秋を現す「白秋」を雅号としたのではないのでしょうか。本名を、隆吉と言います。
  立夏を過ぎ、暦の上では夏になりました。燦々と降り注ぐ日の光と、その中を吹き抜ける風に気分をよくしているこの頃の僕の姿であります。百花繚乱、様々な花が咲き誇り、僕達の目を楽しませ、芳しい香りを放っています。しぼんだ心に幸福感を与えてくれる暫しのときです。これも神の恵みの業であると感謝しています。
 
 聖書は、「汝の若き日に、創り主を覚えよ。」と教えています。私が初めて教会を訪ねたのが18歳の時でした。当時、多くの人が知るテレビ番組であろうと思われる「大草原の小さな家」の主人公であるチャールズ・インガルス一家の家庭の温かさに惹かれたことが、僕を教会へと誘いました。
 


 今や日本の教会の多くは、高齢化を辿る一方であり、若者が教会を訪ねてくることなど極めて稀なことであると思います。僕自身も信仰を与えられることなど思いもよらないことでした。若者達の多くは、信仰は年寄りのもの、線香臭いものと考えがちではないでしょうか。しかしながら、殊に年末年始に神社仏閣への参拝ははばからないのです。そして結婚式は、教会でと言う具合です。これらには真心がありませんから信仰によってと言うことは出来ません。
 そして目に見えない教会の神よりも、おそらくは神社仏閣にある神仏のように目に見える物の方が有り難く思えるのです。イエスは言いました。「あなたは見たから信じたのか。見ないで信じる者はさいわいである。」と。これからの社会を担う青年達にまことの神を伝えたい。これが僕の思いのひとつであります。
 
 コヘレトは言います。 あなたの若い日に、あなたの創り主を覚えよ。悪しき日が来たり、年が寄って、「私には何の楽しみもない」と言うようにならない前に、 また日や光や、月や星の暗くならない前に雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ。

<旧約聖書:コヘレトの言葉12章1〜2>
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クールビズ
 今年も早や5月となり藤の花が咲き誇り、芳しい香りを放っています。その香りに、初夏の趣きの雰囲気がしています。陽気もよくなり、今日から多くの職場ではクールビズを取り入れたところも数多いそうです。2005年から環境省の推奨で進められてきたクールビズは、省エネ対策として取り入れられ世に認知されたクールビズですが、どれほどの効果があるのかは、僕には分かりません。しかしながら5月から10月までの期間、ある会社の試算によるとエアコンの使用状況にも左右されますが、電気料金が6万円程度軽減できたそうです。必然的にその分の電力も軽減できるわけですから、地球温暖化対策に貢献していることになります。
 
 僕達はもしかしたら、文化的な生活をしていると自負しているのではないでしょうか。確かにマスコミなどが伝える途上国の人々の暮らしを見るとき、僕には、その生活が出来るだろうかと思うことがあります。しかし僕は思うのです。その国の人々は、僕達に比べれば貧しく、不便な生活をしていますが、そのことについて満足はしていないにしても、足りていると思っているのではないかと。僕が幼い頃には、僕の家には洗濯機も冷蔵庫も扇風機もありませんでした。だからと言ってそれが我が家の自然の暮らしであったのです。
 豊かな生活は心の貧困です。文化的な生活というものは、人から知恵を奪います。神から給う知恵を神の為に使うことが、造られた者の責任であると僕は思います。
 



 曲名は忘れましたが、僕が小学生の頃、学校で習った歌です。このような思いに生きる人がひとりでも多くいてくれると良いと思います。この歌の作者がどのような思いから作曲したかは僕の知るところではありませんが、素直に、この歌が歌い継がれることを願う僕です。

1.生きている鳥たちが
  生きて飛びまわる空を
  あなたに残しておいて
  やれるだろうか 父さんは
  目をとじてごらんなさい
  山が見えるでしょう
  近づいてごらんなさい
  コブシの花があるでしょう
 
2.生きている魚たちが
  生きて泳ぎ回る川を
  あなたに残しておいて
  やれるだろうか 父さんは
  目をとじてごらんなさい
  野原が見えるでしょう
  近づいてごらんなさい
  リンドウの花があるでしょう
 
3.生きている君たちが
  生きて走り回る土を
  あなたに残しておいて
  やれるだろうか 父さんは
  目をとじてごらんなさい
  山が見えるでしょう
  近づいてごらんなさい
  コブシの花があるでしょう

 
 
 
 
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