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童神

 僕には毎日の様に聴く歌があります。夏川りみさんと古謝美佐子さんが歌う、童神と言う歌です。特に沖縄の方言、ウチナーグチで歌われる2節がお気に入りです。子供を宝のように、愛情をこめて育てる様子が歌われているのですが、家庭を持たない、つまり子供を持たない僕の心にもしみじみと響くのです。沖縄の歌には心があります。僕はそう思っています。 

 

  夏(なち)ぬ節(しち)来りば
  涼風(しだかじ)ゆ 送(うく)てぃ
  冬ぬ節(しち)来りば
  懐(ふちゅくる)に抱ちょてぃ
  イラヨーヘイ  イラヨーホイ
  イラヨー 愛(かな)し思産子(うみなしぐわ)
  泣くなよーや ヘイヨー ヘイヨー
  月ぬ光 受きてぃ
  ゆういりヨーや ヘイヨー ヘイヨー
  大人(うふっちゅ)なてぃ給(たぼ)り

 

 

 昨日のヤフーニュースに、4ヶ月児虐待死か?20歳母親逮捕と言う記事がありました。殺伐とした世の中で、人の心も病んでいます。旧約聖書:列王記下の中に、『今日は私の子供を食べましょう。明日は、あなたの子供を食べましょう。』と言う記事があります。人心荒廃の極みであります。自らの命を繋ぐために、自分の子供を食べたと言うのですから恐ろしい話です。

 幼児虐待による子供の死は、聞くにも悲しい話です。親となる資格がない者が親となってしまったのです。結婚をしたら何より、親となる心得を習得しなければなりません。何より核家族の時代になって、家族の絆が薄れてきた様に思います。子供の育て方、あやしかた等姑が伝承してきたものがあると思うのです。子供は親を選ぶことが出来ません。20歳ばかりの母親では、子育てより、まだ自分が遊びたいと言う気持ちの方が先立っても無理はないと思います。泣く子供が疎ましい。子供が思うようにならない。そんなことは理由にはなりません。

 

 親となることの責任の重大さを認識出来ない者は、親になるべきではありません。

https://www.youtube.com/watch?v=An9j2MPN24Q(童神)
 
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いじめ

  梅雨空にアジサイの花が似合う時期になりました。3年前に礼拝堂の前に植えたアジサイが今年はすべての株に花が着きました。待つと言うことは忍耐のいることです。

 昨日は浅間山が噴火しました。昨年の御嶽山の噴火をきっかけにして、口永良部島、そして浅間山の噴火と立て続けの噴火に、またかと言う思いです。口永良部島の全島避難から今日で3週間が経ちました。昨日に続き、今日も噴火があり、一時帰島を心待ちにしていた島民の方々の心境には、察するに余りあります。自然の脅威は人知の及ぶところではありません。

 

 昨夜のテレビ番組で、何年前であったでしょうか、虐めを苦にして自らの命を絶った大河内君が取り上げられていました。親とすれば無念でならないと思います。いつごろから虐めが問題視されるようになったのかわかりませんが、僕も虐めにあった者のひとりです。ですから大河内君の事件も他人事ではありません。その頃には虐めと言う言葉はなかったような気がします。僕は登校拒否で反抗しました。これによって困ったのは、両親と担任の教師であって同級生が困るはずがありません。山に隠れて家の様子をうかがっていた事もあります。今となっては、両親と担任には申し訳ないことをしたと思います。両親共になくした今、折に触れてこのことを思い出し、不器用ながらも僕のためにと苦労した両親の愛に感謝をするのです。

 

 

 虐められる側に問題がないとは断言できません。しかし、人を自らの不満の代償として虐める心境には相当の問題があります。つまり、虐める側も弱い人間なのです。弱いからこそ強いように見せようとして、人を虐めの代償とするのです。虐めは、子供の世界だけではありません。いっぱしの大人の世界でさえ、虐めは存在します。その様子は陰湿であり、言葉を代えて言うならば、教養のない人のなす業です。キリストは、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。」と教え戒めています。気の合う者を愛しなさいと言うだけではないのです。僕の、そしてあなたの隣人とはどこにいるのでしょうか。
 
「世に勝つ者とは誰か。キリストを神の子とを信じるものではないか。」僕達は過去には負けていても、今から将来には勝利があるのです。その勝利を盾に堂々と生きてゆきたいと思います。
 

 

 あなた方も聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者の為に祈りなさい。<マタイによる福音書54344

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悩みの日に

 奄美の海の海底に、ミステリーサークルが出現する。こんな話が、ダイバーの間で話題になっていたそうです。田の中に出来るミステリーサークルは、テレビなどでよく話題になります。稲をなぎ倒して出来る丸い形は、誰が何の目的で作ったものなのか、不思議でなりません。それも田の隅にあればともかく、他の真ん中あたりにあるのですから、これまた不思議な物です。さて、その海の中のミステリーサークルですが、直径2mほどの大きさだそうです。ある時、ひとりの潜水夫がこのミステリーサークルを作る張本人をつきとめました。それは、体長12cmほどのフグだったのです。このフグは新種であり、奄美の夜空の星の美しさに因んで、アマミホシゾラフグと名づけられたそうです。このミステリーサークルはその後の調査で、メスを誘い産卵をさせる場所であることが明らかになりました。雌を誘い産卵させるために産卵場所を作る雄の姿は、生き物の世界にはよくある光景です。雄と言うものは何とけなげなものでしょうか。

 

 さて、“花の命は短くて苦しきことのみ多かりき”と言う詩があります。林芙美子女史の詩であり、彼女が色紙などに好んで書いた短詩です。女性を花にたとえ、楽しい若い時代は短く、苦しいときが多かった自らの半生を詠ったものです。人生を振り返るとき、誰もが何らかの苦を背負いながら、年を重ねて生きて行かなければならないことは世の常です。ですからコヘレトは言うのです。

 

  あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」というようにならない前に、また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ。
  その日になると、家を守る者は震え、力ある人はかがみ、ひきこなす女は少ないために休み、窓からのぞく者の目はかすみ、町の門は閉ざされる。その時ひきこなす音は低くなり、人は鳥の声によって起きあがり、歌の娘たちは皆、低くされる。
  彼らはまた高いものを恐れる。恐ろしいものが道にあり、あめんどうは花咲き、いなごはその身をひきずり歩き、その欲望は衰え、人が永遠の家に行こうとするので、泣く人が、ちまたを歩きまわる。その後、銀のひもは切れ、金の皿は砕け、水がめは泉のかたわらで破れ、車は井戸のかたわらで砕ける。ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る。伝道者は言う、「空の空、いっさいは空である」と。<伝道の書第12章1〜8>



 

 いけばなの世界に、“一日花”と言う言葉があります。朝咲いて、夕にはもう萎んでしまう花のことをそう言うのです。アサガオ、ムクゲなどが一日花と呼ばれるものです。まさに花の命は短くてとの詩に、そのまま当てはまる花々です。

 

  僕の師匠の言葉です。「御呼ばれに行って、一日花が挿してあったら、それはあなたのために挿して下さった花なのですよ。挿してくれて人の心の内に感謝をしなければなりませんね。」と教えて下さったことをよく覚えています。

そして、僕はこれらの花を見る度に、心の内に思い出す聖句があるのです。それはなぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのようにして育つのかよく見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花のひとつほどにも着飾っていなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなた方はなおさらのことではないか、信仰の薄いものたちよ。だから「何を食べようか。」「何を飲もうか。」「何を着ようか。」と言って思い悩むな。』<マタイによる福音書6章28〜31>と言うの聖書の言葉です。
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神の領域、人の領域

  昨年まで庭先に咲いていたサワギキョウが枯死してしまい、もうサワギキョウの花を見ることはないだろうと思いつつも、もしかしたら通信販売にあるかもしれないと言う僅かながらの希望を抱き来つつ、「サワギキョウ」を検索してみました。その結果、幾つものサイトが見つかりました。早速、その中で原種を販売している店に発注したのでした。

 そして今日、サワギキョウが届きましたので、いつも見られる場所を選んで定植しました。今年は花を見ることが出来ないかもしれませんが、我家にサワギキョウの復活です。毎年、何種類もの種がこの世から消え去って行っている現実があります。気候の変動や乱開発、無意味な植林、手入れされない山林、心無い人たちによる乱獲など原因は様々です。

 神は、この世の種のすべてを創造され、人に管理を委託されました。その人が種を絶滅へと追い込んでいるのです。大切なものは、なくした後でわかるものです。しかし、その時にはもう遅いのです。僕の住んでいるところから姿を消した植物は数知れません。リンドウ、オミナエシ、サワギキョウ、ササユリ、ワレモコウなどは、かつてどこにでも見られた植物です。昆虫や動物でも姿を見なくなった種もあるはずです。

 

 

 神が造られた種を、人が消してしまう。このようなことがあってよいものでしょうか。自然との調和は、神との和解です。人は神が造られた種を守らなければなりません。その一線を越えることの恐ろしさを僕達は身をもって知るべきであると思います。今も神は、人に対して警鐘を鳴らし続けているのです。そのことの重篤さに気が付く人と、無関心な人に分かれます。無関心ではいられないことに気付き、成すべき手立てを講じないと恐るべき日が訪れるように感じる僕です。それは、個人ではなく社会全体が行く先を変えないことには成し得ないとても重大なことであるはずです。

 

 神は彼らを祝福して言われた。

「産めよ。増えよ。地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物すべてを支配せよ。」<創世記128

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