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第9条
 早や、8月も近くなりました。8月は平和を考える月であると僕は思っています。僕は戦争を知らない年代です。しかし、マスコミによって、また召集され戦地に趣いて戦った伯父達の話を聞き、その悲惨さと悲しみを知っています。それを思うとき、これからの日本はどうなるのだろうかと、国会を見ていました。時代の変遷と世代の交代によってか、憲法9条の持つ文言の重みが軽視されて来ている様に思うのです。今国会では、充分な審議が成されないまま、戦うことが出来る国への議決がなされてしまいました。
 
 しかしながら、国民の多くはこの議決に異論を唱えていると言う調査結果に安堵の気持ちがしています。戦争で一番惨めな、悲惨な思いをしなければならない者は、社会の底辺を支えている一般国民です。一番大切にされなければならない者が、一番の被害者になるなどと言う不条理な話はありません。改めて憲法9条を調べてみました。
 
 日本国憲法第9条
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
 



 今年は、戦後70年目の節目に当る年です。平和ボケしてしまったと言われる時代であるからこそ、今一度、あの戦争の惨状を顧み、命の尊さを重く受け止めることが大切だと思うのです。
 
 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである<エペソの信徒への手紙2章14〜16>

 
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立ち帰れ
 私たちは神の御前に罪人であります。創世記8章には、このように記されています。
「人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ。」しかし、私たちは日常的には自らが罪人だと言う意識は薄いと思います。そうは言っても人から罪人呼ばわりされたら憤慨し、その相手に食って掛かるのが私達の現実の姿なのではないでしょうか。律法が与えられる前にも罪はありましたが、律法がなかったために罪と言う認識はありませんでした。律法が与えられて初めて罪が表に出てきたのです。律法は私達の罪と惨めさを自覚させるものであります。
 
 さて、神は人間の罪を罰せられるのでしょうか。本日の御言葉を見てみますと「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。 立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から」と記されています。このことから、 神は罰する方ではなく人間を正しい道に導いてくださる方であると言うことが出来ます。ここに記されている「悪人」とは、神に背く者です。神は、悪に対して報いを与えられません。 大切なことは、これからの行いであり、未来に対する責任なのです。また、神こそ正しい歩みに立ち帰るよう励まし、悔い改めへと招いてくださっている方であり、愛の神に背くことは愛を失っている状態です。逆に神を信じるとは、神の愛に倣い生きることになります。神は、人間が神へと立ち帰ることを喜びとしてくださるのです。ここに私たちの希望があります。




 私たち人間は、完全ではありません。完全な人間など、この世に一人としていないのです。聖書は、「義人なし、ただの一人だになし。」と教えています。私たちは、罪過ちを犯してしまうこと、神の愛を忘れ自分勝手になってしまうことがあります。 神は、そのような人間に報いを与えることを望んでおられるのではありません。神が望むのは、自らが罪過ちに気づき、神の愛の内に生きること、また、そのように歩もうと志すことといえるでしょう。 それは、神と共に歩むという姿勢です。この根底には神の赦しがあります。神が人間の罪をお赦しにならなければ人間は、立ち帰り新たな歩みを始めることはできません。なぜなら、神の赦しがなければ神との関係が修復されないからです。

「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。
立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から」
旧約聖書:エゼキエル書33章11>


 
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実証主義と信仰
 最近は話題に上がらなくなって来ましたが、小保方晴子さんが発見したと言うスタップ細胞があるかないか、科学雑誌に掲載した論文が捏造だったのか真実なのか、その顛末がどうなったのかが私には興味のあるところです。スタップ細胞が存在し、論文が捏造でないとしたのであれば、この話題を賑わせた時になぜ全てを公にしなかったのかが疑問として残りすっきりしないところです。世の中の人の殆どは、実証主義者であると私は見ています。人の言うことを鵜呑みにしてばかりいたら、大変なことになるかもしれない寂しい時代です。自らが確認しなければ信用できないのです。殊に科学者はその傾向が強いと思います。科学にしても、裁判にしても真実はひとつなのです。
 
 裁判も真っ向から対立する意見を第三者である裁判官が審理します。果たしてこれらのことが、事実であるかどうかは当事者でなければわかりません。事実確認のために証拠を出しますが、この証拠も疑ってかかれば、反対の立場に立つ側からは捏造と言われたり、偽物と言われたりするものです。刑事事件ともなると検察側が多くの証拠を提出します。袴田事件と言うものがありました。その中の証拠品の中に、裁判所がこれは後から作った物だと言う判断を下した証拠品がありました。言ってみれば検察側は、白を黒にする仕事であると私は思っています。そこまでして犯人に仕立て上げたいのか。手柄を上げたいのかと思う事件は数知れないと思います。



 
 以前にお話いたしました葉山嘉樹の言葉である「馬鹿にはされるが、真実を語る者がもっと増えると言い」と言う詩が思い起こされます。偽りを通すより馬鹿にされてもいいではないですか。その方が人としての価値があると思います。しかし、人の心理は自分を強く見せたいのです。それは自らが弱いからです。しかし、嘘のすべてが悪であるということは出来ません。人を励ますための嘘も存在するのです。人の世とはいかに複雑なものなのでしょうか。渡世術とでも言うのかもしれませんが、「正直者は馬鹿をみる」。と言います。しかしながら偽り者が得をしたと言う話はない様に思います。思ってみれば、自らが偽って得をしたなどと人に言う者があるはずがありません。
 
 本日は、目には見えない人の心の内にある信仰ということについて学びの時を持ちたいと思います。神仏を信じる心は誰も持っていると思います。時に私は無神論者だという人もいますが、神仏を絶対的なものと言い回しを置き換えたとき、無神論者にも信仰があるのです。それはお金であったり、高級品であったりと物であることが多いようですが、人は誰も絶対的なものを必要とするのです。これは即ち私達の立場からすれば偶像礼拝であります。それはいずれ無くなるものだからです。
 
 私達は、影も形もない、しかし今も私達の心に活きて働かれる神を信じています。そしてそのことが生きる喜びであり、このことによって折を得ても得なくても、順境の時も逆境の時も豊かな人生を送ることが出来るのです。


あなたには、私をおいて他に神があってはならない。<出エジプト記20章3:モーセの十戒>
 
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いいかげん
 教会の前庭では、夕風にのってユリの花の芳しい香りが漂うこの頃になりました。もうヒグラシも鳴いています。今年も半年が過ぎました。この半年に何を残してきたのだろうと思い返しても特別なことはありません。平凡な日々の連続でありました。僕にとっては、それでいいのかもしれません。

 名を上げて有名になろうとか、一旗上げようとか言う思いが先立つと無理があります。これらは努力も必要ですが、人生の自然の流れの中で生まれいずるものであると思うのです。地位、名誉、権力を求める人は数限りなくいることであろうと思います。しかしこれらは、後からついてくるものなのです。求めるものではありません。
  知り合いの学生が言っていました。「人生は楽しければいい。」と。しかし現実に楽しい人生があったとしても、それは一過性のもので、楽しむために犠牲にするものが伴うことをわきまえなければなりません。

 僕が浜松市に住んでいる時、よく通った食堂のご主人がよく言っていた言葉を想い出します。「なぁ原君よ、人生はいいかげんでいいんだよ。だけどいい加減は駄目だ。好い加減にやってみな。楽になるに違いない。風呂の加減と同じさ。好い加減の湯に浸かると気分がいいだろ。」今年の後半、好い加減の生活を送ることが出来るように思案してみようと思います。
 



 それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことを思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことを思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるからである。
 空の鳥を見るがよい。まくことも刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それなのに、あなたがたの天の父は、彼らを養っていてくださる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
 あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことを思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えてみるがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなた方に言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。<マタイによる福音書62530

 
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