ルカによる福音書にザアカイと言う取税人の話が記されています。取税人とは、そのままの意味で税金を徴収する人で、同胞のユダヤ人から税金を徴収し、ローマに納めることを仕事にしていました。人々から余分に徴収した分が取税人の収益になるわけです。ですから、人々からはローマの手先として見られ、嫌われていたのです。罪人とまで言われました。
ザアカイは自分の中に敵意を持った男でした。ザアカイは生まれながらに背が低かったと聖書に記されています。わざわざ聖書に記述されるぐらいですから、おそらくザアカイは極端に背が低かったのでしょう。人は自分と違うものを裁く傾向にあり、敵意を抱くものです。背の低いのザアカイは間違いなく友達から馬鹿にされて育ったことだと思います。ザアカイの心には劣等感が満ちていました。そして「いつか人々を見返してやる。」という思いでザアカイは努力し、取税人の頭になりました。いくら罪人と呼ばれる取税人であっても、頭になることは容易ではありません。
とにかくザアカイは劣等感をバネにして努力して取税人の頭になり、大金持ちになったのです。「見返してやる」という思いが実現し、その辺の人々よりは余程裕福になったのですが、しかし成功しても心の虚しさは消えませんでした。人々は「あいつは罪人だ。」と皆ザアカイを敬遠し、自分に近づいてきません。
自分の心の中に敵意を持っている人は、時にそれをバネにして努力し、人々が羨むような成功を手にすることがあります。しかし成功がその敵意を取り除くかというとそうではないのです。ザアカイのように心に虚しさが残っていたり、また頑張り過ぎて体を壊したり、家族を犠牲にしたり、どこかでその歪が出てきます。敵意があると自分を大切に出来ないのです。そして自分を大切に出来ない人は、他の人も思いやることが出来ません。私達人間は自分に対する尊厳、健全な自尊心を持つべきだと思いますが、敵意があると自尊心が健全に持てないのです。
とにかくザアカイは成功しても、心から寂しさを除くことが出来ませんでしたが、しかしイエスに出会った時にザアカイは変えられました。誰もザアカイに近づこうとはしなかったのですが、何とイエスは自らザアカイに近づいて下さったのです。そして「ザアカイ、今夜はお前の家に泊まるのだから。」と言われたのです。
当時、人の家に入るということは、その人と一つになるということを意味していました。ザアカイは罪人と呼ばれていましたから、当然ザアカイの家に来る人など誰一人いませんでした。ところがイエスはザアカイの家に泊まると言われる。このイエスの言葉にザアカイは救いを受けました。
今日のメッセージのテーマは「キリストこそ私達の平和」ということですが、キリストの使徒であるパウロは神のことを「平和の神」と呼びました。これは簡単に言えば、神は平和そのものであるということです。そして神が平和そのものであるならば、私達はイエスを心にお迎えすれば平和を得られるのです。「どうしたら自分を愛せるようになるのか?」などと難しいことを考える必要はありません。「主よ、私にはあなたが必要です。どうぞ私の心にお越しください。」と言えばそれでいいのです。
そうすれば平和そのものであるイエスが心にお越し下さって、心から敵意を締め出し、平和と平安を与えて下さるのです。今日も主を心にお迎えしましょう。キリストこそ私達の平和です。
イエスはエリコに入り、町を通っておられた。 そこにザアカイという人がいた。 この人は徴税人の頭で、金持ちであった。 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、 群衆に遮られて見ることができなかった。 そこで、イエスを見るために、走って先回りし、 いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に 泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。<ルカによる福音書19章1〜6節>