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キリストこそ私達の平和
  残暑厳しい中にあっても、ススキの穂が出始めました。バックグラウンドでは、秋が小さな足音を立てながら歩み寄ってきているようです。
  ルカによる福音書にザアカイと言う取税人の話が記されています。取税人とは、そのままの意味で税金を徴収する人で、同胞のユダヤ人から税金を徴収し、ローマに納めることを仕事にしていました。人々から余分に徴収した分が取税人の収益になるわけです。ですから、人々からはローマの手先として見られ、嫌われていたのです。罪人とまで言われました。
 
 ザアカイは自分の中に敵意を持った男でした。ザアカイは生まれながらに背が低かったと聖書に記されています。わざわざ聖書に記述されるぐらいですから、おそらくザアカイは極端に背が低かったのでしょう。人は自分と違うものを裁く傾向にあり、敵意を抱くものです。背の低いのザアカイは間違いなく友達から馬鹿にされて育ったことだと思います。ザアカイの心には劣等感が満ちていました。そして「いつか人々を見返してやる。」という思いでザアカイは努力し、取税人の頭になりました。いくら罪人と呼ばれる取税人であっても、頭になることは容易ではありません。 
とにかくザアカイは劣等感をバネにして努力して取税人の頭になり、大金持ちになったのです。「見返してやる」という思いが実現し、その辺の人々よりは余程裕福になったのですが、しかし成功しても心の虚しさは消えませんでした。人々は「あいつは罪人だ。」と皆ザアカイを敬遠し、自分に近づいてきません。
 



 自分の心の中に敵意を持っている人は、時にそれをバネにして努力し、人々が羨むような成功を手にすることがあります。しかし成功がその敵意を取り除くかというとそうではないのです。ザアカイのように心に虚しさが残っていたり、また頑張り過ぎて体を壊したり、家族を犠牲にしたり、どこかでその歪が出てきます。敵意があると自分を大切に出来ないのです。そして自分を大切に出来ない人は、他の人も思いやることが出来ません。私達人間は自分に対する尊厳、健全な自尊心を持つべきだと思いますが、敵意があると自尊心が健全に持てないのです。
 
  とにかくザアカイは成功しても、心から寂しさを除くことが出来ませんでしたが、しかしイエスに出会った時にザアカイは変えられました。誰もザアカイに近づこうとはしなかったのですが、何とイエスは自らザアカイに近づいて下さったのです。そして「ザアカイ、今夜はお前の家に泊まるのだから。」と言われたのです。
当時、人の家に入るということは、その人と一つになるということを意味していました。ザアカイは罪人と呼ばれていましたから、当然ザアカイの家に来る人など誰一人いませんでした。ところがイエスはザアカイの家に泊まると言われる。このイエスの言葉にザアカイは救いを受けました。
 
 今日のメッセージのテーマは「キリストこそ私達の平和」ということですが、キリストの使徒であるパウロは神のことを「平和の神」と呼びました。これは簡単に言えば、神は平和そのものであるということです。そして神が平和そのものであるならば、私達はイエスを心にお迎えすれば平和を得られるのです。「どうしたら自分を愛せるようになるのか?」などと難しいことを考える必要はありません。「主よ、私にはあなたが必要です。どうぞ私の心にお越しください。」と言えばそれでいいのです。
  そうすれば平和そのものであるイエスが心にお越し下さって、心から敵意を締め出し、平和と平安を与えて下さるのです。今日も主を心にお迎えしましょう。キリストこそ私達の平和です。
 
 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。 そこにザアカイという人がいた。 この人は徴税人の頭で、金持ちであった。 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、 群衆に遮られて見ることができなかった。 そこで、イエスを見るために、走って先回りし、 いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に 泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。<ルカによる福音書19章1〜6節>
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失われたものの復活
 

  神の定められた天の法則、地の法則に従い、日長はほんのわずかながら短くなりました。また初秋の訪れを知らせるかのように、虫達が音をたてています。人の世がどうあれ、永遠に変わることのないものがあるのです。人はこのことを忘れ、あたかも天地を支配しているかのように振舞っているのです。ここに人の罪と言うものがあります。神は言われます。「立ち帰れ。悪しき道から。私は悪人が滅びるのを喜ばない。」と。

 

 僕の家の敷地の片隅に、かつてサワギキョウの群生している場所がありました。30年ほど前に道路の拡幅により、その地は無くなってしまいました。僕は今となって、サワギキョウの花が懐かしくなり、インターネットで取り寄せて植えつけたのです。大切なものはなくした時に、その重大さが分かるものです。イエスは言われました。「人の子は、失われたものを捜して救う為に来たのである。」僕達は、神から賜った大切なものを、自らの欲によって失ってしまっているのです。イエスはまた言われています。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

 

 

 一般的に教会に行く人々は、心のきれいな純粋な者と思われています。しかし現実は違うのです。神によって集められた、罪人たちなのです。神は僕達が、滅びることがないようにと選んでくださいました。聖書に記された記事にも、イエスは罪人に歩み寄り、食事を共にし、また罪人の家に宿泊したことが記されています。罪ある者こそ、神の恵みを受けることが出来るのです。悔い改めるとは、方向を変えることです。僕達は、自分の人生を自らが切り開いて生きていると思っています。しかし、僕達の人生のここかしこに神の介入があるのです。それは良いことばかりではありません。時に神は試練をも与えられます。それはまさに、わが子を愛する父の様にです。僕達はイエスと共に神の家族なのです。

 

 方向を変える人生は、困難なことではありません。自らの人生を省みて自らがいかに自己中心であるかを認めることから始まります。そして罪とは神に背を向けてきた人生を省みることです。そこから新しい一歩。新しい人生が始まります。

 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」<ルカによる福音書19章1〜10>
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和解と平和
  盆ともなると、夜の空気が幾分変わってきたように感じます。今夜は過ごし易い夜になりました。終戦の日の夜もこのように静かな夜であったのでしょうか。今年は戦後70年と言う節目の年からか、戦争をテーマにしたテレビ番組がいつもの年より多く見受けられるように感じています。
僕達、戦争を知らない世代にとっては、戦争をもっと知らなければならないと思います。学校では、被害者としての日本を教えましたが、加害者としての日本を教わった記憶はありません。おそらく、国による教科書検閲の影響が見え隠れするように思います。
  8月は平和を考える月となっていますが、それも終戦の日、つまり8月15日までのことで、この日を境にしてマスコミは話題を提供しなくなります。僕は、今も隠されている戦争の事実を知りたいのです。
 

  

  世界平和は実現するのでしょうか。僕はそうは思いません。世界に目を向ければ、テロと民族紛争が耐えません。これは人が持った悲惨な事実であります。戦争の一番の犠牲者は、一般市民です。何の罪も無い市民が、戦時下で国の統制を受け惨めな生活を余儀なくされました。これはどこの国でも変わらないことであると思います。
 
  聖書は物語っています。「実にキリストは私達の平和です。」と。平和ボケして時代と言われる中でも、僕達の周りに敵は数多くいます。その最たる者が自分自身であります。自分との妥協は、自らを不幸に導きます。平和を実現する者は、キリストによるのです。そこに命の平和が訪れます。
 
 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ち壊し、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。
 また、両者をひとつのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたがに平和を宣べ伝え、近くにいた人たちにも平和を宣べ伝えました。<エフェソの信徒への手紙2:14〜17>

 
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永遠に生きる
 昨日僕は、30年来の友人である友達のお父さんが亡くなったので、葬儀に行ってきました。人の死は避けて通れない道であります。人の目には悲しいものであっても、この先にまだ道があるのです。そのことを信じ、死にさえも希望を持つことが出来るのが、キリスト教徒です。イエスは言われました。「私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。」
 イエスは肉体の姿をとってこの地上を歩きました。けれども、肉体の姿とは、人間の目に映った幻のイエスにすぎません。本当のイエスは永遠の生命であり、人間の生命そのものであるのです。永遠の生命を信じる者は永遠に死を経験することがない。これが、神が人間に与えた最大の恵みであり、救いの本質なのです。
 



 死の現実は悲しい、愛する人との別離はつらい。しかし、彼らは失われてしまったのではありません。彼らは生きているのです。その霊魂には望みがあるのです。この世でイエス出会って信じた人は幸いです。その人は決して死なないで、永遠にキリストと共に生きることを保証されているからです。
  しかし、この世でイエスに出会わなかった人々も、陰府においてイエスに出会う機会が恵まれるのです。もし僕達が彼らのために、この世でとりなしてイエスに祈るならば、イエスは手を差し伸べてくださり、イエス自らが訪ねたり、天使を遣わして、イエスの救いを信じるように告げてくださるでしょう。この世でも、あの世でも、人はイエスに帰依して永遠に生きる者となるからです。     
 
 そのときマルタはイエスに言った。「主よ、もしあなたがここにおられたら、弟は死ななかったでしょうに。けれども、私は今でも、あなたが神にお願いされることは何でも、神はかなえてくださることを知っています」。
 イエスはマルタに言った、「あなたの弟は生き返る」。マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは知っております」。と言った。イエスは言われた。「私は復活であり命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。
 マルタは言った、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じております」。<ヨハネによる福音書11章21−27節>
 
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父と子

   早や7月も終わり、8月になりました。このところの暑さは異常なものです。夏日、真夏日、猛暑日と暑さの程度によって、呼び名がつけられましたが、これ以上暑くなったら何と言う名が付くことでしょうか。神は良きものとして天地を創造されました。良きものとして創られた天地を変えてしまったのは、人の欲望でしかありません。しかし、人の欲望が全て悪いものであるとは、僕は考えていません。人の為になることも数多くあるからです。これには欲望と言う言葉は間違いかもしれません。

 

 例えば人は自動車を作りました。排気ガスから放出される二酸化炭素は、地球温暖化の最たるものです。自動車があるお蔭で、体が不自由な人でも遠出が出来ます。また、電気を作りました。そのお蔭で暗い夜道も明るくなり、家庭では暗い夜も明るく過ごすことができます。言い換えれば、人が良きものとして作ったものが転じて、地球温暖化を招いてしまったと言えるのではないでしょうか。僕達の未来は、遠い過去にあるのです。その未来に向かって、次世代を生きる人々の為に残さなければならないものがあるはずです。それは、形あるものとは限りません。僕達の心の奥底に眠っている、忘れかけてしまっているかもしれない神への思いです。

 

 

 人は神を忘れたとしても、神はいつでも僕達ひとりひとりを覚えていて下さるのです。そして、来る者を拒みはしないと招いていて下さいます。人は裏切り去っていっても、神はいつも僕達に伴っていて下さいます。それは神は僕達の父であるからです。父と子、このような密接な関係は他にはありません。

 父を忘れた迷える子羊たちにイエスは、父をお示しになられました。その父に立ち帰りたいと言う心が叫びを挙げているのを僕達は心の奥底に秘めているのです。勇気を持って閉ざされかけた心を開き、父に向かって語りましょう。父よ、あなたの子はここにいますと。

 

 父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない」。<ヨハネによる福音書6章37>
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