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フォレスタ
 私達の日々の生活の営みは、平々凡々としたものでしょうか。多くの人は、今日も何事もなく、無事に過ごすことが出来たと言うことでしょう。確かに間違いはありません。しかし、自らが気がつかないところで、日々の生活に神の介入があるのです。今日は、キリスト者としての生き方について考えてみたいと思います。
 先日、私はフォレスタと言う混声合唱グループのコンサートを聞きに行って来ました。日本の心の歌と題して、主に昭和時代に流行した歌を聞かせてくれます。私はこのグループが好きで、もう何度も聞きに出かけたのですが、帰る時にはなんとも言えない幸福感に満たされているのです。
 フォレスタのメンバーはすべて音楽大学で声楽を学んだプロのオペラ歌手です。歌を歌って人を幸福感で満たしてくれるとは、なんとも素晴らしいことであると思うのです。これこそまさに、賜物です。人を不愉快な気分にしたり、怒らせたりすることは誰にでも出来うることです。各自に神が与えられた賜物は、自らが賜物であると気がつくことはありません。才能といえば、それまでです。しかし賜物とは、人を幸福にしたり、人の役にたったりするものであると私は考えています。
 
 私達はキリストに結ばれて、ひとつの体であります。体にはさまざまな器官があり機能があります。すべての部分が同じ働きをしているわけではありません。このように、私達は、ひとりひとりに与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っており、それが統合してひとつの体をなしているのです。
 



 わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。
 なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。


 このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。
 愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。
 
 貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。
互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。<ローマの信徒への手紙12章3〜16>

 


 
 
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安保法案

 僕が行く末を心配していた安保法案が可決されてしまいました。国民世論の多数が反対を唱える中で、国民の声に耳を貸さなかったと言われても当然の事態であると思います。

 日本国民は先の戦争を経験した中で、戦争がいかに悲惨をもたらすかを知っているはずです。戦争を知らない年代である僕でさえ、そう思うのです。ましてや戦争を経験した方々は、なおさらの事であるはずです。多数勢力による強行採決と言われても当然です。このことが決定的になると、戦後堅持してきた憲法9条の見直しに拡大する恐れさえあります。

 

 

 人は古より、争いを繰り返してきました。聖書は、人は神と隣人とを憎む傾向にあると教えています。現代の世界情勢を見ても、醜い争いは絶えません。神は人をそのような者に造られたのでしょうか。決してそのようなことはありません。人は神の祝福を受けて造られたのです。
 

 人は生まれつき自己中心的志向があります。それが孕んで欲望が生まれます。その欲望が妬みや争いの火種となるのです。神が造られたものの中で、同じ種同士が殺しあうものは人類でしかありません。今、シリアは内戦の真っ只中です。何十万人とも言われる人々が戦火を逃れ、住みなれた土地を離れなければなりません。受け入れてくれる国があったとしても、生活の保障は約束されていないのです。
 

 国の基となる何の罪も無い人々が、一番の被害者とならなければならない社会は間違った方向にあると言わざるを得ません。よく街角で見かける立て札に、「世界人類が平和でありますように」と記されたものを見かけます。この言葉の根拠が何であるかは僕には分かりません。しかし、確かに「世界人類が平和であるように」と願って止みません。

 

 憎み争い、あとを絶ちて

 愛と平和は、四方にあふれ

 御旨のなるは、いずれのひぞ

 来たらせ給え、主よ、御国を

 <讃美歌228-3

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神の真心

 今夜は快晴、外に出てみると満天の星空です。神の天地創造に思いを馳せます。そしてバックでは、虫達の奏でる音が秋の夜長の演出を買って出ている様に、のどかな夜となりました。東北地方の災害とはうって違った光景です。被災された方々の思いを察する時、僕は、特に何も際立ったものがなくても、これで幸せなのだと実感しています。

 

 しかし神は、被災された方々を見捨てられたわけではありません。いつもすべての人を心に留め、祝福されているのです。神の救い恵みは、この世のすべてに亘っています。現に、取るにも足りない僕をも牧師として立てて下さり、福音を述べ伝えよと励ましを与えてくださっています。このような僕さえ、神の祝福があるのですから、神の祝福から漏れる人などあるはずがありません。

 

 

 ただ僕は最初から祝福を受けたわけではありません。幾多の試練を経験しました。それには相当の忍耐が必要でした。被災された方の中には、家も財産もすべてを無くし、或いは親族をも亡くされた方がおられます。神はそういった方々を、そのままにされて置かれる方ではありません。必ず顧みて下さいます。置かれた状況は、一気に変わるものではありません。気がついたとき、ああ、神が顧みて下さり、祝福されたと思うのです。

 

こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。

柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。

義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。

あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。

心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。

平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。

義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

<マタイによる福音書5310
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愛の光
 
 日に日に秋の気配を感じられる時期になりました。僕は、日が短くなることに、何かもの悲しいものを感じます。しかしながら秋は、春に種を蒔き天塩にかけて育てた作物が収穫をもたらせてくれる喜びの時期でもあるのです。その喜びを実感することが出来るのです。
 時は巡り巡ります。神は僕達に約束をされました。時はノアの洪水の去った後のことです。ノアの箱舟の記事を思い起してみてください。神は御心に言われました。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ。私はこの度したように、生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続く限り、種まきも刈り入れも、寒さ暑さも、夏も冬も、昼も夜も、止むことはない。」このことは天地創造の時から、現在に至るまで変わりなく続いているのです。時代は変わり、世は移り行くとも神の約束は永遠であります。
 


 神の永遠性に比べて、人の人生は何とはかないものでありましょうか。パウロは土の器と例えました。叩けば割れる、落とせば壊れる、そのはかない人生の中にも神は、僕達に最も良きことを成してくださるのです。その際たるものは、罪あるこの身をも厭わず、キリストを信じる信仰により、子としてくださったことです。ですから僕達は、神を天の父と呼ぶことが出来るのです。
 イエスは自らを、私は世の光であると言われました。そしてまた、僕達を「あなた方は世の光である。」と言われ、光の子らしく歩みなさいと勧めています。これは真であり、真実であります。ですから心を曇らせるようなことがあってはなりません。光は闇に勝利したのです。愛の光は輝き、暗闇を照らし出すのです。
 
https://www.youtube.com/watch?v=Heq1sBdhR0M 

 

愛の光 かがやき 暗闇を照らし出す

わが主イエス  世の光 自由を与える力

いのちの御言葉 

輝け 主の栄光 地の上に 心を燃やしたまえ

あふれよ 主の恵みあわれみ この地を生かしたまえ







 
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