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ハロウィーン
 近年、日本でもハロウィーンが年中行事の中に入り込んで来ました。何でも取り入れるのが日本人の良いところでもあり、意味を知らずして取り入れるのが悪いところであると思うのです。今日は、ハロウィーンの意味するところを知って頂きたいと思います。
 
ハロウィーンとは、毎年10月31日に行われる、古代ケルト人が起源と考えられている祭りのことです。もともとは秋の収穫を祝い、悪霊などを追い出す宗教的な意味合いのある行事でありましたが、現代では特にアメリカで民間行事として定着し、祝祭本来の宗教的な意味合いは、ほとんどなくなってしまっています。カボチャの中身をくり抜いて「ジャック・オー・ランタン」を作って飾ったり、子どもたちが魔女やお化けに仮装して近くの家々を訪れてお菓子をもらったりする風習などがあります。
 



 ケルト人の1年の終りは10月31日で、この夜は夏の終わりを意味し、冬の始まりでもあり、死者の霊が家族を訪ねてくると信じられていましたが、時期を同じくして出てくる有害な精霊や魔女から身を守るために仮面を被り、魔除けの焚き火を焚いていました。これに因み、31日の夜、カボチャをくりぬいた中に蝋燭を立てて「ジャック・オー・ランタン」を作り、魔女やお化けに仮装した子供たちが近くの家を1軒ずつ訪ねては「お菓子をくれないと悪戯するよ」と唱えるのです。家庭では、カボチャの菓子を作り、子供たちはもらったお菓子を持ち寄り、ハロウィン・パーティーを開いたりします。お菓子がもらえなかった場合は報復のいたずらをしてもよいことになっています。


https://www.youtube.com/watch?v=n6r15EN8td8
<讃美歌504番>
 
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人を裁くな
 
 僕達はそれぞれに一人ひとり異なった境遇にあります。これを運命と呼ぶべきでしょうか。ベートーベンの交響曲に「運命」と言う曲があります。おそらく知らない人はいないと思われるジャジャジャジャ〜ンで始まるあの曲です。日本では「運命」または「運命交響曲」という名称で知られていますが、これは通称であって正式な題名ではありません。この通称は、ベートーベンの弟子であるアントン・シントラーの「ジャジャジャジャ〜ンと言う冒頭の4つの音は何を示すのか」という質問に対し「このように運命は扉をたたく」とベートーベンが答えたことに由来するとされるものです。
 アントン・シントラーは、「ベートーベンは、この作品の深みを理解する手助けとなる言葉を与えてくれた。ある日、ベートーベンの前で第1楽章の楽譜の冒頭を指差して、「このようにして運命は扉を開くのだ」という言葉をもって、この作品の真髄を説明して見せた。」
と語っています。一人ひとり異なった境遇の人生、ある意味では運命は、とても深みのあるものなのだと思います。ベートーベンが、この叩く扉の向こうに抱いた思いはどの様なものであったかを知るすべはありません。
 
 この曲は、四つの楽章と呼ばれるものから出来ており、第一楽章、第二楽章と暗いイメージの曲でありますが、最後の第四楽章においては、明るく華やかにまとめられています。暗から明へとなっているのです。闇から光へと導かれる創世記の記事に重ね合わせてみることが出来るようです。僕達の生活は今なお、夕となり朝となったと記されている創世記の天地創造の秩序の中にあります。

 創世記に記された一日は、夕方から始まります。僕達は、夕になると一日が終わったと言いますが、一日の終わりは始まりでもあるのです。天地創造の時から変わることのないこの神の恵みのうちに命を与えられていることに、神の偉大な力を感じないではいられません。永遠の昔からの闇から光への変わることのない繰り返しは、神の救いの業にあります。一日の区切りは時刻や日付ではありません。「夕となり朝となった。」この御言葉に今日の日を省み、感謝の念を持ちつつ新しい日を重ねて行きたいと思います。

 

 
 さて、新約聖書のマタイによる福音書の5章から7章は、山上の説教と呼ばれるところです。5章は、この世を生きる弟子達の姿。6章は、天の父を意識して生きる事。そして7章は、神の裁きを覚えつつ生きることとしてまとめることが出来ます。

 本日は7章から御言葉を見てみたいと思います。
 『人にして貰いたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい。』この御言葉は、キリスト者ではなくても、人を諭す時などに極一般的に使われる言葉です。またこれに似たものは、他の宗教にもあります。しかし、ここには決定的な違いがあるのです。この言葉の裏側を垣間見ると、大抵の場合は他の人からされたくないことは、自分もするなと言った消極的なものです。しかし、イエスは、積極的な表現によって、天の父から良いものを受ける者として、自分も他の人に良いものを与えるように命じておられるのです。

 7章の冒頭には、人を裁くなと言う命令があります。これも人に対して批判や善悪の判断を下してはならないと言う意味でのイエスの言葉ではありません。ここでイエスが禁止するのは、自分を正当化しようと他人のあらを捜したり、他人に対する優越感を伴った批判です。これらは高慢な態度であり、このような高慢は神によって懲らしめられるのです。これが、『人を裁くな。あなた方も裁かれないようにするためである。』と言う御言葉の裏にある正しい理解なのです。
 自らの多くの欠点に目を閉じながら、他人の欠点はよく見えるのです。これが人の姿です。善意を装い他人に忠告するのは偽善者です。まずは自らの欠点に目を向けなければなりません。そうすることで様々な事態を正しく見ることが出来るようになり、他人をも助けることが出来るのです。
 
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。<マタイによる福音書7章1〜5>

讃美歌71番

https://www.youtube.com/watch?v=pbKqyYCe-Bs
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柔和と謙遜

 秋も深まりゆき、夜なく虫の声も少なくなってきました。天空では、午後11時を過ぎると東の空にオリオン座が上ってきます。天地創造の時から変わらぬ光景であると思います。

神の創造の業に思いを馳せる時です。神は御心に言われました。『地の続く限り、種蒔きも刈り入れも、寒さ暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない。』

 

 天地創造の時、神は人を神のかたちに模って造られました。そして言われたのです。『産めよ、増えよ、地に満ちよ。』と。人は神に祝福された者であるのです。しかし、僕達の生き様の現実はどうでしょうか。大なり小なりの苦を背負って生きている現実があります。人生は苦であります。僕はいけばなをたしまみます。かつて仮屋崎省吾氏のいけばな講習会に参加した時、仮屋崎氏から言われたことは、『毎日が夢のようでしょう。』と言う事でした。よくよく考えてみても、そんな人はいたとしても、この世に一つまみであると思います。

 

 

 疲れたもの、重荷を負うものは、誰も私の下に来なさいとイエスは言われました。そうすれば僕達を休ませて下さると言うのです。イエスの言葉は『私は柔和で謙遜な者だから、私のくびきを負い私に学びなさい。あなた方は安らぎが得られる。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからである。』と続きます。イエスが僕達に求める生き方は、柔和と謙遜です。すべての人がこの言葉に従ったとした、らどんなに幸福な世界になることでしょうか。しかし、人は神と隣人を憎む傾向にあるとハイデルベルグ信仰問答は断言しています。

 確かにそうかもしれません。僕達は自分を中心にして生きているのです。人を傷つけ、神の教えに従うことが出来ないのが人の持った性分です。

 

 人と言う漢字は、人と人とが支えあっていることを現していると武田鉄也氏は言いました。聖書の言葉にも通じる美しい言葉です。この言葉が現実となる世の中が到来することを願ってやみません。

 

 心の貧しい人々は幸いである。天国はその人たちのものである。

 悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。

 柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。

 <マタイによる福音書535

 

 https://www.youtube.com/watch?v=i6UwLTVRGJ8<讃美歌21 495

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御心を知る
 イエスはご自分のことを「わたしは羊の門である」と、繰り返し念を押すように語られています。これは厳密に訳しますと「羊のための門」となります。檻の門ではなく羊のための門です。この門を通らなければ羊は檻に入ることも、そこから出て命の糧である牧草にありつくこともできません。言うまでもなく羊とは、私達人間のことを譬えています。
さてここで、普段私達が使っている門と言う言葉についてみてみたいと思います。
たかが門と言っても、なかなか奥の深いものがあります。門は塀や垣に開けられるものであり、一般的には塀などを構える家屋や敷地に設けられるものです。神社の鳥居は神を祀る空間と人間の空間を繋ぐ一種の門であります。また、「鬼門」は俗界と冥界の境に存在する門と考えられていました。
 

 門は門扉を持ち閂や南京錠などで施錠したり、出入を制限をする役割を持っていることが多いのですが、これらの役割を持たずに単に門柱が通路の両脇に設置されているだけのものや、古来の中国などに見られる屋根と門柱のみのものであっても門と呼ばれることがあります。
「門」という漢字は本来、門柱と両開きの門扉を描いた象形文字です。次第に門扉を持たないものであっても、境界の境に建てられた出入り口であれば「門」と言うようになったと考えられています。門という言葉は家の入口であり象徴とも言えるものであるため、しばしば門下、一門などと言うように「家」そのものを指すこともあります。アジアでは門に外から入ってくる災いから守るため門神を置く風習もみられます。日本ではこれが門松に変化したのです。本日は更に意味深い、羊の門について学びの時としたいと思います。
 


 イエスは山上の説教で「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし命に通じる門は何と狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」と言っています。命に至る門は狭いのです。ですからその門を通ろうとする者は、自分を小さくし、身を低くしないと入ることが出来ないのです。自分の心に湧き起る様々な思いや、欲望や自己主張、思想的主義主張、そうしたもので自分が大き膨れ上がっていてはとても入れません。イエスが「わたしを通って」と強調している門とは、イエスの十字架です。イエスの十字架は、この世で最も低い所、侮られて人に捨てられ、罪に死んだところです。この門を通らないでこの世を生きる人は、盗人であり、強盗だと言います。
 
 しかしこのイエスを通って生きる人生は、暗い夜でも、外敵のいる中でも救いの壁に囲まれて悪魔の誘いから守られます。また、檻の中で安全に過すだけでなく、門を出て、教会の外の世の力と戦う時も、どんな状況であっても、恐れることなく伸び伸びと自由に戦って、勝利することができるのです。何故なら私達のために命を捨ててくださる羊飼い、イエスが共にいて下さるからです。そればかりか私達を豊かな牧草に導き、魂の糧である命の言によって養ってくださいます。しかし、私達人間はこの真の羊飼いである命の主を見失い、自分の思いのままに歩んでいます。そして体だけでなく魂までも滅んでいくのです。イエスはその滅びから救い出して永遠の命を与えるために、十字架上に私達の滅びを負って死なれ、命の門となって下さいました。もっともっと自分を小さく低くしてこの狭き十字架の門を通り、救いに与りたいと思います。

 

輝く日を仰ぐとき 月星ながむるとき

いかずち鳴り渡るとき まことの御神を思う

我が魂 いざたたえよ 聖なる御神を

我が魂 いざたたえよ 聖なる御神を

 

森にて鳥の音を聞き そびゆる山に登り

谷間の清き流れに まことの御神を思う

我が魂 いざたたえよ 聖なる御神を

我が魂 いざたたえよ 聖なる御神を

 

https://www.youtube.com/watch?v=VWv616VrRP4
 
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祝福の人生
 コスモスの花が美しい時期になりました。秋は、さまざまな表現がなされます。読書の秋、スポーツの秋、収穫の秋、そして食欲の秋など、それだけ気候的に良い時期にあたると言うことだと思いますが、更に僕は哀愁の秋と付け加えます。収穫を終えた田畑は暫く休ませ、また翌年の収穫を得る為の準備をしなければなりません。今年の僕の畑は、残念なことに不作でした。いつもの年より、少しばかり手を抜いてしまったことが原因です。
 豊かに蒔く者は、豊かに刈り取り、少ししか蒔かない者は、少ししか刈り取らない。この御言葉が脳裏をよぎっています。
 
 僕達の人生も自ら手入れをしなければ、神の恵みを無駄にしてしまうことになります。神は一方ならぬ思いで、僕達を祝福し恵みを与えてくださっています。その受け皿である僕達の体が健全でなければ、せっかくの恵みを垂れ流しにしてしまうことになるのです。人生の中で、一番厄介なのが人との関わり方です。僕を含め、人間関係に疲弊してしまう人は少なくはないと思います。
 
人生は順風万帆の時ばかりではありません。逆境の時に人生は空しいというのではなく、そして落ち込むのではなく、この時にこそ、神に目を向け心を開くべきなのです。空しいとは、心が空の状態です。そこにこそ神は恵みをもたらし、生きることに対する喜びを与えて下さいます。順境の時も、逆境の時も常に神に目を向け心を開き、神の恵みを受け感謝を捧げましょう。明日から始まる新しい週が、祝福されますように、あなたのために祈りを捧げます。
 



青春の日々にこそ、お前の創造主を心に留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光が失せないうちに。雨の後にまた雲が戻ってこないうちに。<コヘレトの言葉:1212
 
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