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師走 教会の新年
 昨日は雪が舞いました。いよいよ本格的な冬の訪れです。今年の残すところあと1か月ばかり。この言葉がこれからの挨拶になる 時期になりました。教会暦では、明日の日曜日からキリストの降誕を待つ期間となる降臨節(アドベント)に入ります。教会暦では降臨節から新年になります。今年も礼拝堂にアドベントクランツを作り献花台に置きました。アドベントクランツには4本の蝋燭を立てます。クリスマスを迎える日曜日を重ねるごとに、一本づつ火を点してゆきます。
 
​ これからの時期は忙しいという思いが先に立つようになります。思ってみれば、年賀状、忘年会、お歳暮、クリスマス。そののちには新年を迎える準備として門松を立てたり、お節料理、餅つきなど確かに忙しい時期です。

 
 
 クリスマスは12月25日となっていますが、聖書にはイエスの誕生日が12月25にであるという記録はありません。諸説由来はありますが、教会の伝統として25日をクリスマスと定めています。だたひとつはっきりしているのは、僕たち罪人の救いのためにイエスがお生まれになったということです。イエスご自身も聖書の中で、「私が世に来たのは、罪人を裁くためではなく、罪人を救うためである。」と語られています。
 これからの時期、年末商戦も相まって猫も杓子もクリスマスです。このような中にあっても、心をを乱すことなく心静かに、賛美と祈りとをもって、クリスマスを迎えたいと思います。


  神は、実にその独り子を世に遣わすほどに世を愛された。それは御子イエス・キリストを信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命を得るためである。<ヨハネによる福音書3書16>

  主よ、人の望みの喜びよ
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馬鹿にはされるが
  昨日僕は友人の子供を訪ね、僕が青春時代を過ごした浜松へ行ってきました。友人の子供と言っても、もう30歳になります。産まれたときから見てきたので、家庭を持たない僕にとっては、まるでわが子のように思えるのです。僕の誕生日を覚えていてくれ、誕生日の贈り物を用意していてくれていました。その心遣いに、思い余りて言葉足りずの心境です。
 人を思う心が薄れてきている時代になってきた様に思うのは、僕だけでしょうか。人間関係ほど厄介なものはありません。僕は身をもってこのことを感じています。ともすればあたかも自らが人よりも偉い者のような錯覚に陥り、人を見下げて見る傾向が僕達の心の隅にはうごめいているのです。「セメント樽の中の手紙」の著者である葉山嘉樹氏は、馬鹿にはされるが真実を語る人がもっと増えるといいと語っています。確かに正直者は馬鹿をみます。
 
 人に媚を売って、要領よく生きる人が強いのです。しかし僕にはそんなことは出来ません。僕は馬鹿でいいのです。馬鹿にされつつ、この世の底辺にへばりつく様に生きてゆくのが、僕にとって分相応の生き方だと思っています。武田鉄也氏が言うように、人と言う漢字は、人と人が支えあうことを意味していると言うことに頷けないことはありません。そのようであって欲しいと思いつつ、これは理想論的な解釈のように思うのです。
 
僕の誕生日を覚えていてくれた友人の子供、その心に感謝し、人の心のあたたかさに触れた思いの一日でした。
 



おお友よ、このような音ではない!
もっと心地よいものを歌おうではないか
もっと喜びに満ち溢れるものを

歓喜よ、神々の麗しき霊感よ
天上楽園の乙女よ
我々は火のように酔いしれて
崇高な汝の聖所に入る

汝が魔力は再び結び合わせる
時流が強く切り離したものを
すべての人々は兄弟となる
時流の刀が切り離したものを
物乞いらは君主らの兄弟となる
汝の柔らかな翼が留まる所で

ひとりの友の友となるという
大きな成功を勝ち取った者
心優しき妻を得た者は
彼の歓声に声を合わせよ

そうだ、地上にただ一人だけでも
心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ
そしてそれがどうしてもできなかった者は
この輪から泣く泣く立ち去るがよい

すべての存在は
自然の乳房から歓喜を飲み
すべての善人もすべての悪人も
薔薇の路をたどる

自然は口づけと葡萄酒と 
死の試練を受けた友を与えてくれた
快楽は虫けらのような者にも与えられ
智天使ケルビムは神の前に立つ

神の壮麗な計画により
太陽が喜ばしく天空を駆け巡るように
兄弟よ、自らの道を進め
英雄のように喜ばしく勝利を目指せ

抱き合おう、諸人よ!
この口づけを全世界に!
兄弟よ、この星空の上に
愛する父がおられるのだ

ひざまずくか、諸人よ?
創造主を感じるか、世界よ
星空の上に神を求めよ
星の彼方に必ず神は住みたもう

<ベートーベン:交響曲弟9番第4楽章より、歓喜の歌>ウィキペディアより
 

<讃美歌2編157番:この世の波風騒ぎ>

https://www.youtube.com/watch?v=BPmzqSlRiWM
 
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命を繋ぐ
 この雨の後はまた寒さが増してくるのだろうと思っています。明日もまた雨模様です。
今朝のTVニュースでこんな現実があってよいのかと思う話題がありました。それは、低所得家庭の現実でした。母子家庭であり、母親はうつ病で充分に働くことが出来ず、年収は100万円と言うことでした。このようは状況ですから、食事にまわせるお金は僅かしかありません。1日2食と言う日も珍しくはないと言うのです。この世の裏側を見せ付けられた思いでした。このような家庭を支援する団体があるそうですが、運営は困難と言うことでした。
 
 飽食の時代と言われる時代にあって、コンビニなどで賞味期限切れと言う事で処分される食品は数知れません。僕は市内のコンビニでその現実を目の当たりにしたことがあります。勿体無いの一言に尽きます。勿体無いとは、ウィキペディアによると物の本来あるべき姿がなくなるのを惜しみ、嘆く気持ちを表す言葉です。「勿体」とは、元来は仏教用語です。また、「勿体無い」は、もともと「不都合である」、「かたじけない」などの意味で使用されていました。現在では、それらから転じて、一般的に「物の価値を十分に生かしきれておらず無駄になっている」状態やそのような状態にしてしまう行為を、戒める意味で使われている言葉となりました。
 
 生命の根源は、神から与えられる食べ物です。その尊い食べ物を機械的に軽々しく扱ってよいものだろうかと思うのです。
 22日は、収穫感謝祭です。収穫の喜びをすべての人と分かち合い、少なくとも食に不自由することのない社会の実現を願わないわけにはゆきません。


 
 
 さて、使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自分たちがしたことや教えたことを、みな報告した。するとイエスは彼らに言われた、「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」。それは、出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで彼らは人を避け、舟に乗って寂しい所へ行った。
 
 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ、一せいに駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。ところが、はや時もおそくなったので、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。みんなを解散させ、めいめいで何か食べる物を買いに、まわりの部落や村々へ行かせてください」。
 
 イエスは答えて言われた、「あなたがたの手で食物をやりなさい」。弟子たちは言った、「わたしたちが二百デナリものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか」。するとイエスは言われた、「パンは幾つあるか。見てきなさい」。彼らは確かめてきて、「五つあります。それに魚が二ひき」と言った。そこでイエスは、みんなを組々に分けて、青草の上にすわらせるように命じられた。人々は、あるいは百人ずつ、あるいは五十人ずつ、列をつくってすわった。
 
 それから、イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、二ひきの魚もみんなにお分けになった。みんなの者は食べて満腹した。<マルコによる福音書6章3142
 
<讃美歌312番:慈しみ深き>

https://www.youtube.com/watch?v=491lIVCYwF8
 
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後悔せぬように
 いつしか虫の声も途絶え、晩秋から初冬への移ろいの時期になりました。明日は立冬になります。早や11月、まさに光陰矢のごとしと言う言葉が身にしみます。
 時折訪問している姉妹から、僕の家の近所の方が同じように入院していると聞かされました。姉妹を見舞いに行ったついででありましたので、その方をも見舞ってきたのです。僕はその方を屋号から、米屋のおばさんと言っています。僕の両親が結婚した当時、米屋の大お婆さんには随分助けてもらったと聞かされていました。僕の家にとって恩のある家のおばさんです。
 
 おばさんの病状は、あまりよくないようです。膵臓癌でこの先長く生きられることは望めないとのことでした。長居をしてしまったので、「お祈りをしましょうか。」と神に祈りを捧げ帰ろうとした折、おばさんは、主の祈りを聞きたいと言うのでした。おばさんは、婚前まで教会に通った方です。主の祈りを唱え終わると、「いい言葉やねぇ。」と感涙のおももちのようでした。
 そして昨日、僕の妹がおばさんの見舞いに行った折、主の祈りをもう一度聞きたいと言っていたと言うのです。午後7時を回っていましたが、僕は居てもたっても居られない気分になり、病院へと急いだのでした。病状が病状ですから、おばさんの願いを知りながら今日でなくてもと思い後送りにしてしまった時に、万が一、天に召されたとしたら僕の心は、後悔に後悔を重ねると思ったのです。このことだけは避けたかったのです。
 



 病室に入り、「おばさんが主の祈りを聞きたいと聞いたので来ましたよ。一緒に祈りましょうか。」と共に主の祈りを唱えたのでした。「何度聞いてもいい言葉ねぇ。」おばさんの言葉です。“今夜来ておいてよかった。”死を目前にしているおばさんを前にして、僕の心の中は、安堵に満たされていました。
 
主の祈り 
 
天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、
限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

讃美歌358番<こころみの世にあれど>

https://www.youtube.com/watch?v=R33ex7GXMrk
 
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