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救い主の誕生

  今年も平安のうちにクリスマスを迎えることが出来ました。クリスチャンであっても意外と知らない人が多いのですが、クリスマスの期間は1月6日まで続きます。

 先日、教会の会員の方から、シュトーレンを頂きました。生地にはドライフルーツやナッツが練りこまれており、表面には砂糖がまぶされています。ドイツでは、クリスマスを待つ降誕節の間、少しずつスライスして食べる習慣があります。フルーツの風味などが日ごとにパンへ移っていくため、「今日よりも明日、明日よりもあさってと、クリスマス当日がだんだん待ち遠しくなる」。とされています。因みにシュトーレン発祥の地は、ドイツのドレスデンという街だそうです。

 

 

 イエスの誕生は、真っ先に羊飼い達に知らされました。当時のユダヤ世界では、羊飼いという職業は忌み嫌われるものでありました。その羊飼いにまず、イエスの誕生が知らされたのです。そしてイエスの生まれた場所は、馬小屋でありました。

神の御子が、馬小屋で生まれるとは到底考えられることではありません。

  イエスは卑しいと言われる人たちに誕生を知らせ、卑しげな馬小屋で生まれたのです。これもはかり知ることのできない神の定められたことでありました。そしてその生涯といえば、名もなき人々、社会の端に身を隠すように生きてゆかなければならない人々、罪あるとされた人々と共に生きたのです。決して華々しい生涯を送ったのではありませんでした。

 

 私たちも神の前には罪ある者です。そのことを自覚することが出来るでしょうか。僕は大抵の人は、そのようには思わないと考えています。それよりも人との比較の中で、自らをあの人よりは立派だと思う人の方が圧倒的に多いと思うのです。あの人には負けたくないと言う思いの人が多いと思うのです。しかし、例えそうであってもこのようなことは、神の前には何の価値もありません。

 

  それよりも自らの愚かさを認めて、神の前に謙る人生を送ることを神は求めておられます。無理に背伸びをする人生は空しいものです。降誕されたイエスが招いておられます。その招きに応えて、分相応の人生を、イエスを神の御子・救い主であると言う確信を持った人生を送りたいものです。

 

 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。<マタイによる福音書11章28〜30>

讃美歌106番 荒野の果てに夕日は落ちて

https://www.youtube.com/watch?v=9mr1GeJe_LQ



 
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ハレルヤ!
 遥か彼方の木曽駒ケ岳が雪で真っ白になりました。空の青と雪の白のコントラストが、いよいよ本格的な冬の訪れを実感させます。今年も残り少なくなりました。慌ただしさが追ってくるように思える時期です。時に身を流されるのではなく、今年一年間を顧みるゆとりの時を持ちたいものです。
 
 時は、クリスマスとなりました。僕が幼少の頃、未だ保育園にも通っていなかったと思います。朝起きたら枕元に、赤い長靴が置いてありました。中身はお菓子です。僕の両親はすでに他界していますが、クリスチャンではありませんでした。しかし、クリスマスは知っていたのでしょう。子供への親心というものでしょうか。僕が初めて貰った親からの贈り物のように記憶しています。この時期になると、その光景を思い起こすのです。
 



 天の父は、この世にとても素晴らしい贈り物を贈ってくださいました。それがクリスマスです。天の父にとって最も大切な独り子、イエス・キリストをこの世にお遣わしになられたのです。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を得るためであると聖書は教えています。
 その素晴らしい贈り物に応えるのが、僕たちです。即ち、イエス・キリストを神の御子と信じることです。御子を信じる者には更に素晴らしい贈り物、永遠の命が与えられるのです。人の人生は死で終わることはありません。イエス・キリストは言われました。「生きていて私を信じる者は、決して死ぬことはない。」と。
 しかし、現実に人には死が訪れます。イエス・キリストの御言葉から解釈するならば、死さえも、人生の一駒なのです。それは十字架に掛けられ死んだ後、3日目に甦ったイエス・キリストが証してくださいます。甦るとは、更という漢字と生きるという漢字が合わさって出来ています。死んでも更に生きるのです。死んでも尚生きるのです。
 
 多くの恵みと憐れみを僕たちに与えてくださったイエス・キリストの降誕の日、クリスマスを共に祝いましょう。

 
 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
 ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。
この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。 彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。
 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。 <ヨハネによる福音書1章1〜6>


 メサイヤよりハレルヤコーラス
 https://www.youtube.com/watch?v=du_55EZFL0Q

 
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苦悩からの解放

 

 昨日は楽しみにしていたフォレスタのコンサートに出かけて来ました。僕にとって数少ない楽しみの一つです。フォレスタは、この名古屋公演を以て今年のコンサートは終了と言うことでした。そのためか期待していたアンコール曲は、ベートーベンの第九交響曲の4楽章から“喜びの歌”でした。わが国では、喜びの歌と蛍の光は年末の定番の曲のようです。因みに西欧では、蛍の光は年始に歌われる曲だそうです。

 

 街はすでにクリスマス気分にあふれています。クリスマスは、救い主であるイエス・キリストの誕生を祝う日であることは言うまでもありません。しかし僕は思うのです。すべての人が心からキリストの誕生を喜んで迎えることが出来ているのかと。表向きは喜んでいても心の中には、悲しみ、嘆き、寂しさを抱えている人が少なからずいるのだろうと。

 

 

 
  イエスの誕生を祝いに来た東方の3人の博士が持参してきたものは、黄金、乳香、没薬でした。特に没薬は当時、死者と共に埋葬するものであり、イエスはすでに誕生の時から、十字架への道が定められていたのです。

 イエスは社会からはじき出され、身を隠すように暮らしている人たちに寄り添い、喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣き、罪を赦し慰めと希望を与えてくださいました。そのイエスの心の温もりが、アドベントクランツの蝋燭の火の灯の中に見え隠れするようです。本当に小さな蝋燭の火の温もりは、苦悩を引きずって生きている人々には、太陽の光のように明るく温かなものなのです。その温もりを世に知らしめることが、教会に課せらた務めです。イエスの心の温もりに触れ、感謝と喜びを以てクリスマスを迎えたいと思います。

 

 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。<ルカによる福音書2章1112

 

讃美歌103番 牧人ひつじを
https://www.youtube.com/watch?v=FDDb1nuLEXo



 

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良心と自由
当地は、今年2回目の降雪となりました。当地では古くから、恵那山に3回雪が降ると里にも雪が降りてくると言われています。果たして今年は恵那山に3回雪が降ったかどうかは定かではありません。
 年の瀬が迫る中、クリスマスの雰囲気が日増しに町を賑わせてきています。信仰のあるなしにかかわらず、今やクリスマスは国民的行事です。イエス・キリストがこの世に御生まれになった。このことは、神の人に対する愛の取り計らいです。“イエス・キリストを信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命を得るためである。”と聖書は教えています。
 



 イエス・キリストは、「私は世の光である。」と語り、僕たちに「光の子らしく歩みなさい。」と教えられました。そしてイエス・キリストは、この世を照らす真の光として、この世に来られたのです。果たして僕たちは光の子らしい歩みをしているかどうか問われたとしたら、決してそうだとは言えません。物には表と裏があるように、光の裏には影があるからです。これが人と言うものの現実です。しかし、神は僕たちを見捨てることなく、心のうちに良心と自由を与えてくださいました。その良心と自由に従って生きているのが僕たちです。この良心と自由の拠り所は、神の言葉である聖書にあります。
 
 良心は規則ではありません。心の赴くままに出る立ち居振る舞い、これが良心です。良心が規則であるとしたら、僕たちは何と堅苦しい生き方をしなければならないのでしょうか。神が与えてくださった自由に従って、光の子らしい歩みをしてゆきたいと思います。
 
初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった。<ヨハネによる福音書1章1〜5>
 
讃美歌496番 うるわしの白百合

https://www.youtube.com/watch?v=PXflupuk7Oo
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