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命の源泉
 鉢植えのヒアシンスの蕾にほんのりと色がついて来ました。硬く閉じていた蕾がようよう春の知らせを告げるようで、僕は心なしか嬉しい気分になっています。外では紅梅の蕾も膨らんで来ています。本格的な春にはまだまだほど遠いのですが、来週には暦の上では立春を迎えます。春を待ちわびるのは僕だけではないと思います。まさに早春賦です。

 

 最近のニュースで愕然としたのは、廃棄処分になった食品を転売していたと言う事件です。このニュースを聞いて僕の脳裏を過ったのは、「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を招く」と言う聖書の言葉です。まさに欲がはらんだ事件です。
飽食の時代と言われる昨今ですが、人体に害を与える恐れがある物は除いたとしても、正味期限切れなどの理由で処分される食品は、国内に如何にあるのかと思いを巡らせました。この国でさえ、3食の食事を満足に摂ることのできない家庭が現実に存在するのです。
食は命の源泉です。一日3食の食事を摂ることが出来ることに感謝をしなければなりません。その食を支えているのが第一次産業で働いている人々です。その人々の苦労をも思い知らなければなりません。そして何より食べ物は、神が人に取って食べてもよいとされた、神から与えられたものであることを知るべきです。このことは旧約聖書の創世記に記されています。
 僕たちの命を繋いでいるのは、神から与えられた食と、神の言葉です。

 
 地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべてのものと共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねらる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを青草と同じようにあなたたちに与える<創世記9章23

讃美歌243番 ああ主のひとみ

https://www.youtube.com/watch?v=YRlsSVCc8sM
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雪景色
  先一昨日の朝、カーテンを開けたら一面の雪景色でした。この冬一番の大雪です。今までが暖かすぎたので、これが当然と思った次第です。しかし、車を運転する者にとっては雪ほど厄介なものはありません。路面凍結、スリップ事故と冬の時期は運転に注意しないと思いもよらないことが起こります。この僕も何度か経験してきました。そのたびに痛い出費です。
 雪は地上の物を白一色に覆い隠してしまいます。綺麗なものも、汚れたものも。一面の銀世界と例えられもします。美しい表現であると思います。僕にとっては厄介者の雪も、やはり降る時期に降らないと気象や環境に大きな影響が生じます。雪は融けてやがて地中に浸透し地下に貯えられて、田畑を潤す水、飲料としての水となります。人は何より水がなくては生きてゆくことは出来ません。
 



 白色は無垢できれいな印象を与えます。雪景色も見ようによっては美しく、綺麗なものです。僕たちの心も雪の様に白く綺麗であったら、世の中に争いは起こらないかもしれません。しかし僕たちは神の御前に罪人であります。ですから日々毎日罪を重ねているのです。それは自分の意識の中にはないかもしれません。しかし口にはしなくても、心のうちに善からぬ思いを抱くことはよくあることです。僕たちは自らの良心に従って行いにしないのです。しかし僕たちの持っている良心も、神の御前には何の効力もありません。僕たちが罪から解放されるためには、イエスに従う他はないのです。自らの力で清く生きることは出来ません。
新しい週が始まります。イエスを主と崇め、イエスに従いつつ罪からの解放を願い、堂々と神の御前に進みゆきたいと思います。
 
讃美歌521番 イエスよ 心に宿りて
 
https://www.youtube.com/watch?v=qO01mC6EJuw
 
1 イエスよ心に宿りて 我を宮となしたまえ 
    汚れに染みしこの身を雪より白くしたまえ
  我が罪を洗いて、雪より白くしたまえ

2 イエスよ御腕を伸ばして全ての仇を追いやり
   我をまたき牲となし大前に捧げしめよ
  我が罪を洗いて、雪より白くしたまえ

3 イエスよ十字架のみもとに我は伏して請い願う 
    流れいずる血潮にて罪の身を清め給え
  我が罪を洗いて、雪より白くしたまえ

4 イエスよ君の功にて清めらるるぞ嬉しき 
    我を新たに造りて君の者となし給え
  我が罪を洗いて、雪より白くしたまえ
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活きて働かれる神

  昨日はこの冬、薄っすらと初めての積雪になりました。時は寒の内です。厳しい寒さの中にあっても当然です。早くも一月も半ばです。何もしなくても時は過ぎ、全てもものを帰らない過去に押しやってしまいます。今年の僕の心情は「あの時やっておけば良かった」と後悔することを避ける年にしたいと思っています。
 そんなことを思いつつも、今日は梯子から転落して腕に擦り傷を作ってしまいました。梯子の角度が急であったためです。仕事にかかる前に少し角度か急かなとは思いました。しかし、大丈夫だろうと言う慣れから、こうなってしまったのです。まさに「あの時」梯子の角度をもう少し緩くしておきさえすれば、けがをすることなく終わったでしょう。
 



 僕は生傷が絶えません。一か所治ったと思えば、また新たな傷を作ってしまうのです。体の傷は、痛みこそ伴いますが比較的軽く治ります。しかし、心の傷は根が深く、治るまでに相当の時間を要します。そして感覚的な痛みこそないにしても、やはり痛みがあります。苦しみがあります。そして不安と恐怖を伴うこともあるのです。これは一般論ではなく、僕自らが経験した結果です。

  イエスは言われました。「重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。あなた方を休ませてあげよう」と。そのとき僕はキリストを知った者でした。今思い返すと、間違いなく神の救いが感じられるのです。不思議な体験を幾つもしました。やはり聖書にしるされている通り、神は今も活きて働かれることを、この身を以て確信したのです。
ハレルヤ!栄光が世々限りなく神にありますように。
 
 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。<マタイによる福音書11章28〜30>
 
讃美歌285番 主よ 御手もてひかせ給え

https://www.youtube.com/watch?v=y13Y3T7sBJ0&list=RDPXflupuk7Oo
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目に見えるも、見えないもの
  今年はいつになく暖冬と言うことは、誰もが納得することであると思います。僕の今までの人生の中でも、この時期に雪がなかったと言う記憶はありません。暖冬の年には、カマキリの卵が、小枝などの下の方にあるそうです。運よく家の前でカマキリの卵を見つけました。言い伝えの通り、枯れたススキの茎の下の方に産み付けれらていました。厳しい寒さの冬は辛いものがあります。しかし、暖冬を喜んでいるわけにはゆきません。地球温暖化と言う長い道のりの中の一齣であると思います。
 
 途上国は、近代化を図ろうと邁進しています。しかしそこには、かつてのわが国が経験した事態が起こっていることは事実として受け止めなければなりません。最近では中国の大気汚染問題をマスコミが報道していました。PM2.5対策商品も開発されているようですが、それは根本的な解決にはなりません。先進諸国が経験した悲惨さを理解してもらい、人類が二度とそのような境遇にさらされることのないようにすることが、先進諸国の責任であると思います。わが国でも僕の小学校の頃は、公害という言葉が出来、水俣病:イタイイタイ病:四日市喘息が三大公害として問題となっていました。その教訓を通して現在のわが国の環境があるのだと言うことを理解しなければなりません。
 



 神は人に知恵をお与えになられました。しかし人は、神から与えられて知恵を用いて、欲望の道具としたのです。公害が代表される一つに挙げられます。またお金儲けのための欲も生じました。事実世の中は、お金によって動いていることを否定することは出来ません。何をするにしても、先ずお金です。僕は復古主義者ではありませんが、貧しさの中にこそ、温もりがあったように思うのです。豊かになると人はあたかも自らを偉いもののように錯覚を起こす傾向にあるようです。そして心の温もりと、豊かさを天秤に掛けるのです。
 往々にして豊かさの方に勝利があるのではないでしょうか。目に見えるものと、目に見えないものとの比較では、人は目に見えるものに価値を置きます。欲の支払う代価は死であると聖書は教えています。
 僕たちは、神のかたちに似せて造られたものです。神が祝福して与えて下さったものを大切にし、その上に豊かな生活を築きたいと思います。
 
  試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。
 人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。愛する兄弟たちよ、思い違いをしてはいけない。<ヤコブ1章12〜16節>

讃美歌122番 緑も深き若葉の里

https://www.youtube.com/watch?v=GUlyRUuJ3hE

 
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世にある限り

  明けましておめでとうございます。今年は、今年も、今年こそと、それぞれに新たな思いで新年を迎えられた方も多いことと思います。そうは思ってみても、確信がないと本当にただ思ってみただけに終わってしまいます。僕はそういう経験を何度となくしてきました。信念を貫くということは、並大抵のことではありません。ただ一つ僕自身が自らをほめてやりたいことがあるとしたら、神学校を卒業できたことです。

 

 そんなに堅苦しく考えなくても、夢を追いながら生きる人生もよいものだと思います。そんな中には実現できる夢があるかもしれません。時が満ちた時に叶う夢もあると思います。そのとき心の中は、幸福感で満たされるでしょう。しかし人の心は変わりやすく、このとき得た幸福感も、時の経過とともに過去のものになってしまうのが世の常です。

 しかし僕は苦しみながらも、幸福感に満たされています。それは僕は主にあって、神の前には何の功績もないのに、神の子とされたことです。そして復活と永遠の命が約束されていることです。恐らくこの世にこれ以上の喜びはないでしょう。この喜びを語り伝えることが、僕に与えられた使命の一つであると思っています。

 


 

 「そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。それは患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです」<ローマの信徒への手紙5章3〜4節>


讃美歌404番 山路こえて

https://www.youtube.com/watch?v=1oOQUkEfalQ
 

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