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十字架の言葉
  今年は閏年、損をしたような、少しばかり儲けたような気分です。今僕は、聖書を毎日読み続けています。これを聖書通読と言います。牧師として当たり前と言えばその通りです。新約聖書は完読し、旧約聖書の通読に入りました。旧約聖書は奥が深いものです。信仰の先人たちが通って来た道を記しています。因みに聖書と言うと、旧約聖書、新約聖書を合わせたものを指します。66巻の書が記されており、旧約聖書の創世記に始まり、新約聖書のヨハネの黙示録に終わる一貫したものです。これは天地創造に始まり、神の国の完成に終わると言う事です。


 
 新約聖書を読み終えて思うことがありました。それは、いつの時代になっても人は変わらないと言う事です。目に見えない神の教えよりも、目に見える人の世の楽しみに傾き、罪を重ねるのが人の世の常であるようです。旧約聖書:詩編
53に“善を行う人はいない。ひとりもいない。と記されています。人は神の前にはすべて罪ある者です。罪とは神に背を向けることです。人は皆、神と隣人を憎む傾向にあるとハイデルベルグ信仰問答は、明記しています。
 
 聖書の特徴は、人の良いところも、隠しておきたいところもあからさまに記している点であると僕は思います。他の宗教の聖典或いは経典には、おそらくないことでしょう。人間味ある書物です。永遠のベストセラーと言われる所以であるかもしれません。さて、これからまた、旧約聖書の通読に入ります。旧約聖書は39書の文書が収められています。楽しみながら、また心を痛めながら読み進めてゆきたいと思います。
 
 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。<コリントの信徒への手紙第一:118
 
 讃美歌294番 みめぐみゆたけき
 
https://www.youtube.com/watch?v=WFZBClhK1tE
 
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喜びの涙
 あいにくの雨天の週末になりました。しかしながら、恵みの雨でもあります。春先の雨は、一雨ごとに暖かくなってゆくものですが、その時期にはまだまだ早いようです。
 僕が子供のころ、大草原の小さな家と言うテレビ番組がありました。見た記憶のある人も多いことと思います。そのドラマの一齣に、“神様は人のために、涙を流されることがる。それが雨となって降ってくる。人のために流す涙は、人のためになっている。”と言うものがありました。神はに人のために涙を流されるのです。ところで僕たちは、人のために涙を流すことがあるでしょうか。人のためと言うのは、人のことを思ってと解釈することが的を得た解釈になると思います。
 
 自分にとって悲しい涙、悔しい涙はいくらでもあります。僕は未だかつて、人のために涙したことはおそらくないと思います。聖書の記事には、食事の席で罪を赦された女の人が、イエスの足を涙で濡らし髪の毛でその涙をぬぐって、イエスの足を洗ったと言う話があります。イエスの権威によって罪を赦されたと言う思いから出た感涙の涙であると思います。この女の人は罪深い女であったと聖書は記しています。その女の人が罪を赦されたその喜びは、思い余りて言葉足りずの心境であったと思うのです。真心から出た涙です。
 
  教会歴は受難節に入りました。苦しみを受けたイエスを思い、涙を流そうとは言いませんが、イエスの受けた苦しみ、迫害、辱めを思うとき、浮足立って喜びの日々を過ごそうとは思いません。僕たち罪人のために、十字架の死と言う最も重い刑に処せられたイエスを心のうちに覚えつつ、復活の日を待ち望みたいと思います。
 



 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。
  イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた。シモンは、「先生。お話しください。」と言った。「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。
 あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。<ルカによる福音書7章36〜48>


讃美歌272番 ナザレのふせやに
https://www.youtube.com/watch?v=__1fWry5ze8
 
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主の再臨
  今日は、白梅の花が咲いているのを目にしました。そして昨日は、イヌノフグリが咲いているのを見つけました。先週に続き思うことは、春は確実に迫っていると言う事です。
僕が、そしておそらく誰もが待ちわびていた春の訪れです。待つと言う事は、忍耐のいることです。季節の移ろいは、人がどうすることもできません。ただただ忍耐して、その時期を待つしかありません。
僕の植物好きは、既にご承知のことと思います。青春の日に西洋とちの木を植えました。花が咲くまでに20年待ちました。カワヅザクラの木を植えました。花が咲くまでに15年待ちました。ブドウを植えました。実が付くまでに5年待ちました。今年もかと言う諦めと、来年はと言う期待の繰り返しでありました。まさに忍耐です。
 



僕たちクリスチャンが希望を持って待っていることがあります。それはキリストの再臨です。キリストが再び、この世に来て下さる。このことに希望を持っているのです。しかし、キリストの昇天後、2000年の時を経ますが、未だに再臨はありません。だからと言って諦めたわけではありません。「私は再び来る。」とキリストが約束されたからです。そして今を生きる僕たちは、キリストの再臨に一番近い時を生きているのです。これが僕たちの救いの源泉でもあるのです。聖書に記されていることの多くは、現実のものとなりました。人知を超えた神の知恵が、力となって世に現れたのです。その顕著なものが、イエス・キリストの誕生です。聖書は神話物語ではないのです。
いつキリストが再臨されても善い様に、常に心の備えをしておかなければなりません。その日は、盗人が来るようにやって来るからです。
 
 心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
<ヨハネによる福音書14章1〜3> 
 
讃美歌320番 主よ 御許に近づかん

https://www.youtube.com/watch?v=94XDAo7T1FU

 
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自分を憎んだ人はいない
  庭先の紅梅が五分咲き程度になりました。初春の予兆に僕の心は嬉しい気分です。何年か前に、この紅梅の枝を使って生け花を生けたことがあります。驚いたことに、紅梅の枝は、中も紅色をしているのです。一昨日は立春でした。休眠していた生き物たちが息吹くときも、もうそう遠くはありません。
 
 自然の生き物たちが神の定めた時期に従って神に栄光を帰しているのに、人は何と愚かな生きざまを神の前にさらさなけれがならないのだろうと考えてしまいます。聖書の記述から察するに2000年前の人も、4000年前の人も現代の人と変わりのない罪に満ち溢れた生活を繰り返してきたようです。神が創造されたものの内で、罪に染まったのは人だけです。それは自分本位、自己中心的な思考から生じたものであることでしょう。
 誰もが自分を可愛く思い、大切にしたいものです。しかし、隣人を憎む人は数知れずいることでしょう。そこで聖書は教えています。“自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい”未だかつて、自分を憎んだ人はないと思います。これでは世界平和の実現は到底見込めません。
 



 僕は自らを低くすることで、隣人を愛する心が育まれると思います。このことは神からの恵みを頂く条件でもあります。なぜなら神は高ぶる者を退け、謙る者に恵みを給う方であるからです。教会の門をくぐるにも、身を低くしなければ通り抜けることは出来ません。今からでも遅くはありません。謙遜と柔和をキリストの人生を通して学んでゆきたいと思います。
 
 そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。
 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」<マタイによる福音書22章35〜40>


讃美歌310番 静けき祈りの時は
https://www.youtube.com/watch?v=d9IqHInaQMA

 
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