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よみがえり
 この時期、もう寒いと言う言葉は遠のいたように感じる僕です。辺りを見回せば、ウメ、コブシ、モクレン、サンシュユ、そして一足早くカワズザクラが春の訪れを告げています。長かった冬の時期を耐え忍び、今また息をふきかえし地は命に溢れているようです。
 明日の日曜日は、復活祭です。まさにこの時期に見合った教会歴となりました。降誕祭、復活祭、聖霊降臨祭は、三大教会歴と言っても間違いではないと思います。どれも教会にとって欠くことは出来ません。しかしこの中で、復活祭が最も意味深いものであると僕は考えています。キリストの復活がなかったら、現在のキリスト教は存在しないと思います。
 



 僕たちキリスト教徒は、復活に希望をもって信仰生活を営んでいます。そして続く究極の救いは、永遠の命に与ることです。イエスは、十字架に掛けられて死に3日目に復活されました。そして弟子たちの前に現れたのです。復活とは言い方を変えれば、甦ることです。甦るとは、更という漢字と生きると言う漢字が合わさって出来ています。甦るとはまさに、死んだ後にも更に生きることです。甦りのイエスに希望を託し、信仰の生涯を送りたいと思います。
 
 イエスは彼女に言われた、「わたしは甦りであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
 また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。 マルタはイエスに言った、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」。<ヨハネによる福音書11章2527
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謙遜と恵み
 今日は僕は仕事が休みの日でした。昨日から今日の予定を立てて、安穏に過ごすつもりでいたのですが、朝一番に会社からの電話が入りました。休みの日に会社から電話が入ることは決して珍しいことではありません。このことには慣れているのですが、今日の電話は、僕の今日の予定と気分を覆してしまいました。
 製品のクレームの電話でした。一方的にまくし立てられ、僕はただただ「はい、わかりました。」と返事を返すのみで終わりです。僕に非がないわけではありません。そのことは認めますが、相手の口調と勢いに叩きのめされた思いでした。
 
 同じことを述べるにしても、言い方と言うものがあります。上から目線での見方、言い方は人に不快感を与えるばかりか、腹立たせることさえあります。上から目線は、自分の立場を守るためにあり得るものであると僕は考えています。逆に物腰の柔らかい言い方は、なんとも美しいものでしょうか。それは、その人の評価を上げます。相手をいらだたせることもありません。人の世界は千差万別、偉くなりたい人がいるかと思えば、馬鹿にはされても正直に生きている人もいます。いずれにしても、人をいらだせては価値がありません。
 
 先日、僕の部下が昇格しました。彼に言いたいことは、上になればなるほどに頭を低くしなければならないと言う事です。神は高ぶる者を退け、謙る者に恵みを給う方であるからです。
 



 イエスは群衆を呼び寄せて言われた。『聞いて悟りなさい。口にはいる物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。』そのとき、弟子たちが、近寄って来て、イエスに言った。『パリサイ人が、御言葉を聞いて、腹を立てたのをご存じですか。』しかし、イエスは答えて言われた。『わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。  
 
 もし、盲人が盲人を手引きするなら、二人とも穴に落ち込むのです。』そこで、ペテロは、イエスに答えて言った。『私たちに、そのたとえを説明してください。』イエスは言われた。『あなたがたも、まだわからないのですか。口にはいる物はみな、腹にはいり、かわやに捨てられることを知らないのですか。しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。』<マタイによる福音書15章10-20>
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天からの梯子
 梅の花があちらこちらで満開になって、芳しい香りを放っています。時は巡り、昨年もかいだこの香りです。今年もこの時期にしかかぐことが出来ないこの香りを、大切に記憶に留めておきたいと思います。また昨日は、ウグイスのさえずりを聞きました。梅の花もウグイスも春の訪れを知らせる代表格です。僕が待ちに待った春の訪れです。自然は神が定められた天の法則、地の法則に従って時を知らせるのです。それは太古の昔より変わることなく繰り返されてきました。このことは旧約聖書の創世記に記されています。
 
 ある時、ヤコブは旅の途中で日が暮れたので、そこにあった石を枕にして仮寝をします。そして夢の中で天から梯子が降りてきて、天使たちがその梯子を昇り降りする夢を見ます。
その梯子は、人が天に昇るために降りてきたものではなく、神が地上に降りてくるために用意されたものでありました。
 事実、神は地上に人のかたちをとって降りて来られ、人と共に住まわれたのです。この人こそイエス・キリストです。神としての栄光を捨てて、貧しい者、世の中から虐げられた者、罪ある者と共に地上での生活をされたのです。そして十字架につけられて死ぬと言う最期を遂げられました。イエスはこれらのことについて、聖書の言葉が成就するためであると語っています。
 一般的には、人が神に近寄り神社・仏閣へと足を運ぶものです。しかし、僕たちの信じる神は、神自らがこの世に来られ、人と共に生活をされたのです。そして十字架に掛けられ死んだだけではありません。その3日後に甦られると言う、いわば奇跡とも言えることをなし、僕たちに希望を与えて下さいました。神でありながら謙り、人に仕え、互いに愛し合うことを教えられたのです。イエス・キリストこそ僕たちの希望であり、賛美されるべき方であります。
 



 今年の復活祭は、327日です。復活祭は、春分の日の後の最初の満月の日の直後の日曜日と定められています。従って満月がいつになるかで、その年の復活祭に日は変わります。
 
 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。
  それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。<フィリピの信徒への手紙2611


讃美歌320番 主よ 御許に近づかん
https://www.youtube.com/watch?v=6OGyaFfPCDk
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神は高ぶる者を退けられる
 この週末は雨模様。昨日の心地よい晴天が恨めしく思えます。今日は、暦の上では啓蟄です。啓蟄とは「啓」は「開く」、「蟄」は「虫などが土中に隠れ閉じこもる」と言う意味で、「啓蟄」で「冬籠りの虫が這い出る」という意味があるそうです。俳諧では、春の季語でもあります。大地が温まり冬眠をしていた虫が穴から出てくるころであり、柳の若芽が芽吹き、フキノトウの花が咲くころとされています。しかし、あくまでも暦の上の話です。やはり春めいてくるのは、春分の日辺りの頃だと思います。
 
 天地創造以来、神の定めた秩序に従って繰り返して来た季節の移ろいは、僕たち人には、はかり知ることは出来ません。そのすべては神の恵みだからです。この雨もまた恵みなのです。しかし、人が神の定めたことに背を向けるとき、人本位の立場で物事を行うとき、神は人に対して罰を与えられることがあります。その一例が、原子力であると僕は思うのです。原子力は平和に使用する時には、環境に良く人の生活に有効な物です。しかし、ひとたび事故が起こると、このたびの福島の原発事故の様に人の手では解決が出来ないと言う悲惨さに見舞われます。このために故郷を離れなければならなくなった人々がいることを忘れてはなりません。人が作った物の始末を、人が出来ないのです。
 



 また核を兵器として使用することを目的にする国もあります。僕たちの国は、世界で唯一の被爆国です。このことは将来に亘って語り続けてゆかなければならないことです。決して平和ボケしてはなりません。神が創造されたものの中で、同じ種が殺しあうものは、おそらく人以外にはないと思います。
  ハイデルベルグ信仰問答には、「人は生まれながらに、神と隣人とを憎む傾向にある。」と記されています。神は人をそのようなものに作られたのでしょうか。決してそうではありません。神は地の塵から、ご自身のかたちに象って人を創造されたのです。これがアダムであります。神の祝福を受けて創造されたのです。この神の祝福を思い起こし、互いに尊敬の念を持ち、謙りの念を心に地上の生涯を全うしたいと思います。
 
 「神は私たちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みを下さる。」そこでこう書かれています。「神は高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」<ヤコブの手紙456
 
讃美歌310番 しずけき祈りの時は

https://www.youtube.com/watch?v=YNlSOYferkQ
 
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