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降りて来られた神

 藤の花が満開となり、甘いさわやかな香りが周囲に漂っています。僕は藤の花が咲くと初夏の趣を感じています。人と時代は変わっても、神の定められた地の法則は天地創造の時から変わらずに繰り返されてきたのだと、そしてこれからも繰り返されるのだと神の永遠性に胸を打たれる思いです。その神の下で僕たちは生活を営んでいるわけですが、僕たちの生涯は、神の永遠性に比較するならば、1秒にも及ばないことでしょう。

  

 

 そのような取るにも足りない、神に背を向け自己中心である僕たちを神は真心をもって愛していて下さるのです。その現れがイエス・キリストの降誕です。神は僕たちに、神ご自身を知らせるために神の独り子であるイエス・キリストを世に遣わされました。

 一般的な宗教である神道、仏教などでは、神社仏閣へ人が赴きます。しかし神は、神自らが人の方へと天から降りてこられたのです。そして神は語られました。「私は、悪人が滅びることを喜ばない。」と。以前にアルバイトをしていた青年が、「人生は楽しければいいんだ。」と言いました。確かに、楽しい人生は誰もが求めるものです。しかし、何によって楽しむかと言うところが問題です。単なる楽しみを求めれば、そこには大きな落とし穴があります。

 僕たちが味わう楽しみも、悩みも、苦しみもすべては神の御手の内にあるのです。ですからすべてのことにおいて神への感謝を忘れてはなりません。人生の方向転換は、簡単にできるものではありません。しかし、イエス・キリストを神と信じた者は、何においても、どんなときにも喜びをもって神を称えることが出来るのです。

 

 「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」<マタイによる福音書3章16節>
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熊本震災に寄せて

 東日本の震災から5年、また大地震が発生したことは悲痛な思いで受け止めています。

  僕の住む町にも60kmにも及ぶ活断層があり、ちょうど僕の家の下辺りを通っているからです。一瞬にして家族と財産を失うことは、今の僕には想像だに出来ないことです。その活断層が動いたとしたら、僕の町も壊滅的な被害を被るに違いありません。いつどこで起こり得るかわからない大地震に、日頃から準備をしておきたいと思います。被災された方々にせめて、お見舞いを申し上げたいと思います。

 被災された方々に申し上げたいのは、過ぎた過去ではなく、これからのことに希望をもって頂きたいと言う事です。艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すと聖書は教えています。また希望は失望に終わることはないと。

 

 

 旧約聖書の時代、神が堕落した町ソドムとゴモラを滅ぼす記事が聖書に記されています。

その街の住人であり、神が正しいと認めた人がありました。ロトとその家族です。神はロトに街を滅ぼす時を知らせ、その街から逃げる時には決して後ろを振り向いてはならないと言われました。

 ところが逃げる途中で、ロトの妻は後ろを振り返ってしまったのです。その結果、ロトの妻は塩の柱と化してしまいました。ロトの妻は、神の言葉よりも後に残してきたもののことが気になったのでしょう。神の救いよりも、この世のものに後ろ髪を引かれたのかもしれません。

 震災と言う現実の中で、希望を持てと言うのは酷なことかもしれません。無責任な言葉かもしれません。しかし、また日は昇るのです。その光が希望となりますように。
 

花は咲く
https://www.youtube.com/watch?v=DuR8WzPNpWI&nohtml5=False

 
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忍耐と希望
 いつになく今年は桜の花を長く楽しめた気がしています。早春賦を口ずさみながら、春の訪れを待ち焦がれた時期を過ぎ、今や春爛漫と言ったところです。待つと言う事は真に忍耐のいることであると僕は思っています。車の運転で赤信号で停止して、青になるのを待つのも決して短い時間ではありません。たかが何十秒かを待ちきれない思いで信号が変わるのを待つのです。
 僕の植物好きは子供の頃からですが、セイヨウトチノキを植えて花が咲くまでに15年待ちました。カワズザクラを植えて花が咲くまでに10年待ちました。今、谷の百合キリスト教会は、新会堂を建築中です。献堂記念にと先日、セキヤマザクラの幼木を買い植樹しました。この先何年待ったら花を着けてくれるのでしょうか。
 



 イエスは十字架に掛けられた死んだ後、3日目に甦られました。イエスの復活です。そして弟子たちの間に現れ、「私はまた来る。」ことを約束し、天に上げられました。当時の弟子たちは、イエスの再臨がすぐにでも起こることと思っていました。ところが、あれから2000年の時を経ても未だイエスの再臨はありません。旧約聖書の時代に、救世主としてのキリストを待ち望んだ人々も預言書に記されているキリストの出現を待ち望み、どれほど忍耐したことでしょうか。

  僕は諦めていません。なぜならば、イエスの再臨はもしかしたら明日にでも起こるかもしれないからです。今を生きている僕たちは、イエスの再臨に一番近い日を歩んでいるのです。待つことは忍耐のいることですが、その反面、希望でもあるのです。希望は失望に終わることはないと聖書は教えています。主イエスよ、来たりませ。
 
「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には、住いがたくさんある。もしなかったならば、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたを私のところに迎えよう。私のおる所にあなたがたもおらせるためである。」<ヨハネによる福音書14章1〜3>
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死ぬことのない人生
 昨日は会社関係者の葬儀に出席してきました。神式の葬儀です。キリスト者である僕にとっては、また牧師としての立場としては、霊前に玉ぐしを捧げ柏手を打つと言う事に相当の抵抗を感じるのです。死者を悼む気持ちは、古今東西を問わず変わるものではないと思います。死者の冥福を祈る事にもいささか疑問を感じます。ただ、亡くなった方の信仰を否定してはならないと言う事は実感することです。亡くなられた方がその信仰によって幸福を感じて生涯を終えられたのであれば、それは幸福な事であると思います。
 
 『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』イエスはこのように語られました。永遠の命を与えられたキリスト者は、死ぬことはないのです。確かに、キリスト者にも死は訪れます。しかし、それも永遠の命に至る人生の一駒なのです。死んだらお終いではないのです。栄光の体に変えられ、神の下へと導かれるのです。
以前は僕は、死を恐れていました。しかし、このことが理解できた時、死への恐怖は消え失せたのです。
 



『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』とても信じがたい言葉であるかもしれません。しかし、信じない者ではなく信じる者には、この言葉に命があふれているのです。イエスに信頼する人生を送りましょう。
 
『私は復活であり、命である。私を信じる者は、心でも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』<ヨハネによる福音書112526
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エープリルフール

 日本語では四月馬鹿と呼ばれるエープリルフール。最近ではあまり耳にしなくなったような気がします。一年の内でこの日だけは嘘をついてもよいと言われる日ですが、今や嘘は世にはびこっているように思えます。嘘をつかない人はこの世に誰一人としていないと断言できることでしょう。しかし、その内容に問題があるのです。他人を陥れるような嘘は罪です。神がモーセに与えらえた十戒にも、『あなたは偽証してはならない。』と記されています。

 

 僕の母が若き日のエープリルフールの話です。寮生活していた同僚に、その人の親が死んだと嘘をついた人がいたそうです。その人はアイロンがけをしていたのでしたが、その知らせに驚き、大急ぎで故郷へと帰って行ったのでした。これが不幸の始まりであったのです。その人はアイロンをそのままにして寮を出たのでした。その結果、アイロンから出火し、寮が全焼してしまったのです。

 

 

 時にはその人のことを思い、後ろ髪を引かれるような思いで嘘をつかなければならないこともあり得ます。しかし出来ることなら正直に生きたいと思います。以前にも記しましたが、正直者は馬鹿にされます。あえて言うならばエープリルフールは、嘘をついてはならない日であるとした方が良い時代なのかもしれません。

 

わたしはあなたの主なる神である。

わたしのほかに神があってはならない。

あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。

あなたの父母を敬え。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

隣人に関して偽証してはならない。

隣人の妻を欲してはならない。

隣人の財産を欲してはならない。

<旧約聖書:出エジプト記20章3〜17、申命記5章7〜21>
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