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時の流れに身を捧ぐ

 時の経つのも早いもの。ややもすればもう6月です。光陰矢の如しとはまさにこのことでしょうか。今日は教会をたてられた建築会社の方が、教会の写真を撮りに来られると言うので、礼拝堂に花を生けました。なんでも会社案内に掲載するそうです。普段の礼拝の時は献花台に鉢植えの花を捧げています。しかし花を生けながら、やはり生け花はいいものだと思いました。

 先週も引用した御言葉ですが、野の花を見よ、野の鳥を見よと福音書に記されています。デジタル社会の中で、自然から学ぶものが少なくなっている昨今です。しかし花と向かい合っていると優雅な気分、心静かな気分になるのです。自然は神が定められた天の法則、地の法則に歯向かうことはありません。神が創造されたものの中で、神に背を向けたものは人間だけです。その人間によって、自然も大きく変化を遂げたました。地球温暖化が顕著な現れです。生態系への影響は否定できません。工事などで大きくえぐりとらえた山を見ると胸が痛む思いです。そこにはホテルなどの観光施設が建ったり、住宅地になったりしてゆきます。自然との共存を真剣に考えるべき時は既に遅いかも知れません。
 

 
 

 僕はこの地に生まれ育ったことを今、喜んでいます。周囲は山林原野、山からは水が湧き出て谷があります。四季折々の風景を身をもって見ることが出来ます。かといって町までは自動車で5分程度のところに位置していますから、生活に事欠くことはありません。自然からは学ぶことが数多くあります。雲の様子で雨を予想できます。カマキリの卵の産み付けらえた高さで、その年の降雪量が予想できます。それがぴたりと当たるのがデジタル社会の良いところではありますが、時は金なりと極端に言えば秒単位であくせく働きまわる現代に疲れを感じます。悠久の時の流れの中で、時には乗り遅れてもいい。ゆったりとした時の流れの中に身を置く、それが人間本来の姿なのではないでしょうか。
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思い煩い
  気候が良くなってきたので、夜外に出て月星を眺めることが多くなったこの頃の僕です。
人は変わり、世の中の変遷はありますが、この天空は天地創造の時から変わらないのだろうと、悠久の時の流れに思いを馳せています。おそらく僕が生まれる前から変わらないものは、やはり天空のみしかないのです。僕の先祖たちもこの天空の下で生活を営んできたのです。それは月夜の晩ばかりではなかったはずです。これから先の時代も変わることはないでしょう。こんなことを思いながら、つい口ずさむのは聖歌66番の“輝く日を仰ぐとき”です。
 



 ディリリーと言う花が庭先に咲いています。その名の通り、一日花で朝咲いて、夕には萎んでしまうけなげな花です。日々の生活の中で、様々な思いが心の中に浮かんでは消え失せることの繰り返しです。楽しい人生を望むのは誰も同じだと思います。しかし、人生は苦です。苦があるからこそ、楽しいことがあるのです。
  イエスは言われました。「野の花がどのように育つのかよく見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、栄華を極めるソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。・・・野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。ましてあなたがたにはなおさらのことではないか。・・・あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。・・・その日の苦労は、その日だけで十分である。」
 
  明日のことを考えないではいられないのが現実です。しかし、この御言葉に慰められて新しい週を迎えたいと思います。
 
聖歌66番
輝く日を仰ぐとき、月星ながむるとき
雷鳴り渡るとき、まことの御神を思う
わが霊、いざ讃えよ 聖なる御神を
わが霊、いざ讃えよ 聖なる御神を

 
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明日の光
 献堂式から一週間が経ちました。教会は静寂を取り戻し、静寂な日々が続いています。多くの人の出席の下で、その方々を証人として教会の完成と、そして教会を神にささげることを宣言したのです。これは単なる儀式ではなく、今も活きて働かれる神への奉献です。今まで以上に誠心誠意、神の言葉に従い、神の言葉を語らなければならなと思うのです。それには聴衆の有無は関係ありません。これからもこの状況が続くでありましょうが、僕はこの困難な時をも喜んで受け入れています。それには、将来への希望があるからです。それは、必ず人に愛される教会に育て上げていくと言う事です。
 新約聖書に登場する教会の多くは、何らかの問題を抱えていました。それはキリストの使徒であるパウロが、各教会に宛てて送った手紙に詳しく記されています。問題のある教会、堕落した教会を立て直そうとして、パウロは熱心に手紙を書き送ったのです。そのようなパウロの働きに対する反体勢力により、パウロは牢獄に投獄され殉教の死を遂げました。
 



 7年前のことです。僕は精神的に困窮していました。そのような僕に神は働きかけて下さったのです。それは献身への道です。神学校も用意を整えて下さいました。JTJ宣教神学校です。神は厳しい試練をお与えになる事がありますが、必ず顧みて下さるのです。神は死ぬような試練をお与えになられることはありません。神の試練は、愛の現れです。ですからそこで、悲しみ嘆き、苦しみ泣くのではなく、その先にある希望に命をかけるべきです。聖書は教えています。『艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを知っているからです。そして、希望は失望に終わることはありません。』と。

 僕たちにあるのは過去ではなく、神が約束された未来への約束です。神の救いに目を向けず、過去に縛られる人生には、過去を引きずる人生には、希望はありません。暗く長い夜も、必ず日が昇る時を迎えるのです。その光に照らされながら僕たちは生き続けるのです。
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献堂式に寄せて
 谷の百合キリスト教会は、昨日、献堂式を執り行いました。2月から新会堂の建築に着手し、430日に竣工となりました。収容人員20名ほどの小さな教会ですが、僕の教会にとっては一大イベントです。献堂式を前にして、51日の聖日から礼拝を新会堂に移しました。
 この夜のことです。不思議な出来事が起きました。1日の夕方まで、旧会堂の屋根に取り付けてあった十字架が、2日の朝には屋根から外れ地面に落ちていたのです。旧会堂の十字架を取り外さなければならないと思っていた矢先のことでした。偶然と言えばその一言で終わってしまいます。しかし僕は、十字架が落ちたと言う何気ない出来事にも神の介入があるように思うのです。旧会堂は教会の役目を終え、その役目を新会堂へと移管した。臨在の神は、新会堂を祝福してくださった。いつまでも旧会堂に思いを寄せていてはならないのだと言う神の意志が、十字架の落下と言う事であったのではないのかと思います。これは偶然ではなく、必然的な出来事なのではないでしょうか。僕はそう思います。
 


 
 僕の今までの人生には、殊にここ
10年の間には、窮地に立たされる場面が幾度となくありました。死を考え遺書を書いたこともあります。しかしその遺書を書き終えることは出来ませんでした。ワープロのキーを打つごとに今までの人生が脳裏によみがえり、僕を支えて下さった方々の顔が思い起こされてきたのです。とある方の顔が脳裏を過ったとき、
キーを打つ手は止まりました。『私があなたを守る。強くあれ、雄々しくあれ。』と神がヨシュアに語ったように、何があっても生きよ、死は敗北者のなすべきことだと。死に急がなくてもよい、『私があなたを召す時が必ず来るのだから』と神は諭されました。因みに自殺は、神の意志に反する大罪です。この苦しみから抜け出すためには死ぬしかない。そう思う方も多いことだと思いますが、死んだら楽になると言う保証はどこにもないのです。
 
 僕たちの人生のすべては、神の御手の内にあります。それは決して順風満帆な事ばかりではありません。苦しみも、悲しみも、憂いも、そして喜びも楽しみもすべてが、神の意志によるものです。僕が佳境に立たされた時、もうどうしようもないと諦めかけた時、神は救いの御手を差し伸べて下さいました。それは何とも不思議な出来事です。そのような不思議な体験を僕は何度となく経験しているのです。神は今も、活きて働かれるのです。
 
 会員0名からの新しい出発の幕が切って落とされました。それでも僕は落胆することはありません。神がともにいて下さると言う事実があるからです。そして神は語られます。
『強くあれ、雄々しくあれ。』と。
 
 
 主の僕モーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた。「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。荒れ野からレバノン山を越え、あの大河ユーフラテスまで、ヘト人の全地を含み、太陽の沈む大海に至るまでが、あなたたちの領土となる。
一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。
 
 ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」<旧約聖書 ヨシュア記1章1〜9>
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