<< June 2016 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>

隣人愛に生きる

 昨日は健康診断に行って来ました。健康を維持するために必要な事であると思います。

  僕はお陰様で、今のところ肉体的には悪い部分はありません。僕たちの体と魂は、僕たち自身のものでありながらも、現実的には神のものです。神からこの身と魂を託されて生きているのが僕たちです。ですから自分の体を大切にし、罪に染まるようなことは避けなければなりません。「私が聖であるように、あなた方も聖なる者となりなさい。」と聖書は教えています。

  イエスが教えられた掟の一つに、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。」と言う言葉があります。これは自己愛を勧めるものではありません。もちろん自分を愛することは大切なことです。なぜなら、冒頭に記しましたように、僕たちの身と魂は、神のものだからです。神の意志によらなければ、髪の毛一本さえ抜け落ちることもないのです。

 

 

 大切なのは、そのあとに続く言葉です。「あなたの隣人を愛しなさい。」これは相当困難な言葉です。正直なところ僕にも苦手な人が数多くいます。そう言う人たちをも愛しなさいと言うのです。僕にはとてもできないことです。

ハイデルベルグ信仰問答には、「あなたはこれを完全に守ることが出来ますか。」と言う質問があります。その答えは、はっきりと「できません。」と言い切っています。なぜならば、人は生まれつき、神と隣人とを憎む傾向にあるからです。旧約聖書の創世記においては、人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからであると明言しています。そのような人をも神は分け隔てせず、すべての人に愛を注いで下さっているのです。

 その愛に応えて生きることが人の取るべき道です。このように考えると、苦手の人だと思っていても同じ神の愛を注がれている兄弟姉妹なのです。神は人をご自身の像に似せて創造されました。正しい聖いものとして創造されたのです。

このことを知るとき、隣人をも愛せるような気がして来るのです。明日から始まる一週間を、このことを考えながら生きてゆこうと思います。

 

      

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
裸の王様

 いたるところでアジサイの花が咲き、梅雨時期の訪れを感じさせてくれます。沖縄地方は一昨日、梅雨明けでした。僕はいくら暑いと言っても開放的になれる夏の訪れを楽しみにしています。ただ、いちばん待ち焦がれるのは春の訪れです。そこには、山国に住む者にしかわからない喜びがあるのです。コンクリートで固められた無機的な街に住むのもいいかもしれません。しかし、人本来の住む環境は、有機的な場所であるべきだと思います。

そこからは学ぶものが数多くあります。

 

 

 話は変わりますが、昨今マスコミを賑わせている東京都知事の舛添氏は、いかにも歯切れが悪い。誰もがそう思う事であると思います。権力を手に入れると初心を忘れてしますのでしょうか。これが人と言うものかもしれません。権力とは職務であって、人を惑わすようなことはあってはなりません。世の権力者はそこのところを勘違いしているように思います。会社組織にしてもそうです。今やトップリーダーと言う時代ではありません。部下を下支えするサーバントリーダーがトップリーダーにとって代わろうとする時代です。上司にへつらい、コメツキバッタの様に上司にペコペコと頭を下げる時代は終わったのです。

 キリストが世に来られたのは、知者の知恵を辱めるため。力ある者の力を無に帰するためでありました。神の御前には知恵も権力も地位も名誉も、この世で価値があると思われるすべてが空しいのです。キリストを信じる僕たちは、何事においても高ぶることなく謙遜を身に着け信仰と希望と愛の内を歩みたいと切に願います。

 

主は知っておられる、人間の計らいを、それがいかに空しいかを。<旧約聖書:詩篇94篇11> 自分を賢いものとうぬぼれてはなりません。<新約聖書:ローマの信徒への手紙12章16> 

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
正直に生きる
 アジサイの花が色付き初め、いよいよ本格的な梅雨の時期に入るのかと思う僕です。今、僕の花畑は、ユキノシタとドクダミの花が満開です。共に白い地味な花ですが、見ていると愛らしく思えて来るのです。しかし、ドクダミを花畑に植える人は少ないことでしょう。
 
  さて、誰も人生の中で幸福を願い求めるものであると思います。この世の中で、物事を思い通りに出来る人がいれば、そうでない人がいます。また何をするにしてもうまくいかない人もいるのです。何が違うのでしょうか。生まれや育ち、確かにそう言う事もあるかもしれません。
 悪く言えば、この世にはお金や権力を使って物事を思い通りにする人が少なからずいます。しかし勤勉に働いて誠実な暮らしを営んでも、報われない人の方がおそらく多いと思うのです。両者のうち、神のもとに立ち返ることのできる者はどちらでしょうか。
歴史を振り返ってみる時、栄華が長く続いたことは稀です。必ず終焉が訪れます。今の世を見て、高望みをする人は多いのでしょうが、苦労を望む人はいないと思います。もしいたとしても極めて少ないに違いありません。




 人間よりも偉大な誰かを認めることで、不遜や尊大から離れ謙遜さが身についてくるのです。不思議にも礼拝の中で、それが継続されると尚更のこと、「神に生かされている。 自分がわかってくる。」ようになるものです。やがて実を結ぶ時が来た時、より善き実を結ぶ者がどちらかは神が定められる事です。大抵は思いとは違う道にそれてします人生です。しかしそんな時も『我が恵み、汝に満てり。』と神は応えられるでしょう。馬鹿にはされますが、正直に生きる人を神は必ず顧みて下さいます。

あなたがは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろしてつくりあげられ、教えられた通りの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。<コロサイの信徒への手紙2章6〜7>
 
| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
喜びの苦悩

 昨年、一昨年は梅雨入りが早く、既に本州は梅雨入りしています。今年は例年通りなのか、その様子はありません。今、狭き家の庭先には数多くの種類の草花が咲き乱れています。僕が梅雨と言って思い浮かぶのは、アジサイの花とカタツムリです。アジサイは家の庭にありますから、いつも見ることが出来るのですが、カタツムリは随分見た記憶がありません。地球温暖化により生態系への影響も随分あるようですから、もしかしたらカタツムリにも異変が起きていないとも限りません。僕たちは未来の姿を過去に置き去りにしてきてしまったからです。

 

 今日、僕は新車を手に入れました。老後のことを考えなければならない年である僕にとっては、最後の新車になる事だろうと思います。独りである僕にとって、将来に対する不安は拭いきれるものではありません。ただ考えてみても解決しないことは明白です。時の流れに身を任せるしかないのかと思っています。しかし独りでいることが苦痛なわけではありません。しかし、苦悩の毎日でもあります。しかし、このことも神の導きの下にある事だと思っています。

 

 新約聖書に登場するキリストの弟子、パウロは体に棘を持っていました。棘とはおそらく何らかの病気であろうと思われています。そしてこのパウロは神に、棘を取り除いてほしいと三度願ったと聖書に記されています。ですからパウロにとっては相当の重荷であったに違いありません。その願いに対する神の答は「私の恵みは、あなたには十分である。」と言うものでした。パウロは、自らが高ぶらないために棘が与えられたと記しています。

 

 謙遜に生きることは神に喜ばれる生き方です。なぜならば、「神は高ぶる者を退け、謙る者に恵みを給う。」と聖書は教えています。人よりも高い立場に立って人を制したいと言う思いが、心の隅にうごめくのが人情と言うものです。謙遜に生きて馬鹿にされるよりは、人を制して、祭り上げられたいのです。そしてそのことに喜びを感じるのです。そのような人には信仰は必要ありません。イエスは言われました。「すべて、重荷を負うて苦労している者は、私の下に来なさい。あなた方を休ませてあげよう。」と。天使の翼の下に身を置く者は、心の内に平安と安らぎが与えられます。

 享楽にふけり、自らを喜ばせることは簡単なことです。しかし、自らを喜ばせるのではなくて、人を喜ばせることによって、それを自らの喜びとする人生でありたいと思うのです。

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
| 1/1PAGES |