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食の源

 梅雨明けしたと言うのに、また梅雨に逆戻りしたような毎日。スカッとした晴天が待ち遠しい思いです。サルスベリが咲き始めて久しいのですが、今年は花の付きがあまりよくありません。我が家の庭のサルスベリもほとんど花を付けていないのです。気象の影響が少なからずあるのだと思います。来年の夏まで、また一年の辛抱です。

 今日はトウモロコシの種を蒔こうと思い、昨日は肥料を買ってきたのですが、昨夜の天候は雨。雨上がりの畑仕事は、少し辛いものがあります。今年は畑仕事にあまり身が入りませんでした。今僕の畑で育っているのは、トマト、オクラ、スイカ、ジャガイモ、ネギ、キュウリです。いつもの年より種類が少ないのです。

 

 

 

 地よりパンを出だしたる主の御名はほむべきかな。神は僕たち人に、地を耕し食物を得ることを命じられました。創世記の記事です。命を繋ぐために食物はなくてはなりません。食物は店で買う物ではなく、地から得るものです。その術を持たない人は、その代価としてお金を支払い店で買うしかありません。

 人の命を繋ぐ農業、漁業と言った第一次産業が衰退の傾向にあります。就農人口は一体どの位なのでしょうか。海外からも数多くの食品が輸入されています。海外依存型の食生活は、いずれ行き詰まる時が来るように思うのです。世界を見ると、一方では飽食の時代と言われる国があります。その反面、貧困と飢餓に苦しむ人々も少なくはありません。この人たちのために僕らは何が出来るのでしょう。募金もその一つです。しかし僕は思うのです。貧困と飢餓に苦しむ人のことを覚えて、神から与えられた食物を無駄にしないこと。これが第一ではないでしょうか。高級食材に舌鼓を打っている時代ではないと思います。

 

 動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。私はこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。<創世記:93

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未来への約束

 

 昨日は母の召天記念日でした。あれから丸5年の歳月が経ちました。僕はその日のことを昨日のことの様に覚えています。肉親の死は悲しいものです。ある人は、悲しみが癒されるまでに10年かかったと言われました。確かにそうかもしれません。しかし、悲しみをいつまでも引きずって生きてゆくわけにはいかないのです。僕たちには、人類最後の仇である死に打ち勝ったキリストがいるのです。そして復活と永遠の命が約束されているのです。これが僕たちの死を超えた希望であり、キリストが示された未来への約束です。

 

 

 聖書は、ほかの宗教の様に死後のことについて積極的に教えていません。それは死を超越した復活と永遠の命の約束があるからだと思います。死者のための宗教ではなく、生きている者のための宗教だからです。

 『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』キリストは兄弟を亡くし悲しんでいるマルタと言う女性にこう言いました。マルタは言いました。『はい、主よ。あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じております。』マルタの信仰告白であります。

 

 死んだ子の年を数えると言う例えがあります。僕もそろそろ死んだ母を一切キリストに委ね、未来への約束の道を歩もうと思います。

 

 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。

 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」<ヨハネの黙示録21章1〜4>

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青春の日々

 僕がこの年になって青春を語るのももどかしいものがあります。しかし敢えて言うならば僕は素晴らしい青春を過ごしてきました。僕の青春時代は、浜松市と共にあります。温暖な土地柄で良い職場に勤めることが出来、多くの友と得ました。生け花を始めたのもこの浜松です。幸運にもとても良い師匠に就くことが出来ました。仕事に遊びにと、日一日が楽しくて仕方がないと言う心地でした。信仰が与えられたのも、この青春の日の一齣の出来事です。

 勤めていた会社が閉鎖になり、浜松市を後にするを余儀なくされたのですが、あれから25年の年を経た今でも、年に何度かは浜松市在住の友知を訪ねています。

 

 

 今日の花の画像は、ヒメロカリスです。この花の命は短く、今日咲いたと思えば明日には萎んでしまうけなげな花です。生け花の世界では、こうした命の短い花を一日花と呼んでいます。ムクゲやアサガオ、ディリリーなども一日花です。僕は植物が花を咲かせている時期を、青春になぞらえています。人生の内でいちばん華やかで生き生きとした時間。

羽目を外さない限り、何にも臆することなく過ごすことが赦される時です。

 仕事の都合上、決して毎週の礼拝に出席したわけではありませんが、教会生活も僕なりに満足していました。聖書は教えています。青春の日々にこそ、汝の創り主を覚えよと。決して若い日々ではなくてもいいのです。真の救い主、真の救いを多くの人に知って頂きたい。僕たちの信じる神は、今も活きて働かれる神です。教会はすべての人に開かれています。その神を信じる喜びを僕は伝えなくてはならないと思っているのです。


 

青春の日々にこそ、お前の創造主を心に留めよ。

苦しみの日々が来ないうちに。

「歳を重ねることに喜びはないと」と言う年齢にならないうちに。

太陽が闇に変わらないうちに。

月や星の光がうせないうちに。

雨の後にまた雲が戻ってこないうちに。

<旧約聖書コヘレトの言葉(伝道の書)12章1〜2>

 

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測り難きは人心

 サルスベリの花があちらこちらで見られるようになりました。梅雨も終盤、いよいよ本格的な夏の訪れです。天気や季節の移ろいは、僕たちの生活に何らかの影響を与えます。

雨が作物にとって恵みであったり、豪雨ともなると災害の危険が高まります。春は種まき、そして秋は収穫です。僕たちは測り知ることのできない神の知恵、自然の中に取り囲まれて生きているのです。

 

 僕たちがキリストを信じるのは、ご利益があるからではありません。神が僕たちをキリストを信じる信仰に導いて下さったからです。ですからキリストを信じるのは、僕たちの意志であるように見えますが真実はそうではありません。僕たちは、神に選ばれ信仰が与えられ救いの恵みに与ることが約束されているのです。しかし、せっかく与えられた信仰を棄て去る人も少なくはないのです。神に選ばれた喜び、救いの恵みに暫くは喜び教会に通い、礼拝に出席しはするのですが、悲しいことにその気持ちを持ち続けることが困難な人が少なからずいる現実です。日本のキリスト教徒の数は、人口の1%とも言われます。実際はもっと少ないかも知れません。初志貫徹と言う言葉があります。これはとても険しい道です。

 

 

 イスラエルの民は、かつてはエジプトの奴隷でした。それを神がエジプトから救い出したのです。天地創造の映画を見られたり、聖書の創世記を読まれた方も多いことと思います。イスラエルの民は、モーセに導かれ神が与えると約束された土地への旅を続けます。エジプトを出てから、その地に着くまでに40年かかりました。

 エジプトの奴隷から解放され、モーセに導かれて旅をするイスラエルの民達ですが、最初は、やっと奴隷から解放されたと、神が救って下さったと感謝の念に浸りつつ旅を続けるのです。しかし荒野を旅するその過酷さに、喜びの念も少しずつ薄れてゆきます。エジプトにいる時には、食料がたくさんあった。肉が食べたい。水が飲みたい。モーセは我々を殺すためにエジプトから連れ出したのかとまで言う事件も起こります。このようなイスラエルの民を導かなければならなかったモーセの心の内を察するに余りあります。

 

 人の心は昔も今も変わりありません。最初は喜び、この上ない幸福を感じても、時の経過に伴い、その気持ちはだんだんと薄れてゆきます。この僕も例外ではありません。最初は羊の仮面を被り優しく接していても、そんなんことは長続きするはずがありません。必ず本性が出る時が来ます。それを赦すことが出来るかどうかで、神はその人を秤にかけられます。測り難きは人心、その以前に神は人の心の全てをご存じであられるのです。

 

 あなたが私を選んだのではない。私があなたを選んだ。<ヨハネによる福音書1516

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生きる喜び

 ヒグラシが鳴く時期になりました。ヒグラシが鳴くと本当に今日は終わったのだと言う気分になります。そしてヒグラシの鳴く声には、何か物悲しいものを感じる僕です。昨今は、梅雨時期も半ばと言う所でしょうか。

 

 今年ももう半年が過ぎてしましました。思い返してみると何と言って変化のない日々の繰り返しであったと思います。平凡な日々の繰り返し。それでいいのではないでしょうか。

 何か特別なことを求めるとしたら、どんなことを期待するのでしょう。かつてある青年が「人生は楽しければいいんだ。」と言いました。楽しい人生とは、おそらく自分の欲求を満足させる人生であると思います。はっきり言ってそのような人生はあり得ません。人は何かしらの重荷を負うて生きているのが人と言う者です。そのことにより自らが鍛錬され、苦の中にあっても、希望を見出すことが出来るのです。

 

 

 

 確かに僕の友人には、楽観主義の人がいます。「そんなことでクヨクヨしたって仕方がないでしょう。」と。僕はこういう人が羨ましい思いです。しかし、神は死ぬほどの苦を与える方ではありません。必ず立ち直らせ、回復してくださいます。身に降りかかる苦は、罪の故か、あるいは神の試練か。それは僕たちが判断できることではありません。

 生きてゆくことの究極は楽しい人生ではなく、神によって生かされている喜びを感じ、生きていることが楽しいと感じることであると思います。

 

 私たちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。それだけではなく、艱難をも喜んでいる。なぜなら、艱難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、私たちに賜わっている聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからである。<ローマの信徒への手紙5章2〜5>    

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