<< September 2016 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>

一粒の麦

 先の台風も当地には何の被害をもたらさずに過ぎ去りました。しかし、被災された方々にはお見舞いを申し上げます。悪天続きのこの頃、早く日の光を浴びたい思いです。

 稲刈りがあちらこちらで見られるようになり、本格的な秋の訪れを感じています。僕の畑では、冬野菜の準備が整い、先日は雨間を見て聖護院大根の種を蒔きました。収穫まで2カ月ほどかかると思います。決して農業と言えるほどの畑ではありませんが、農の業には楽しみがあります。しかし、自然を相手の仕事ですから、良い収穫を迎えられる時ばかりではありません。その時は仕方がないなと諦めるほかありません。農業を職業としておられる方々は、そうは簡単に諦めることは出来ません。一粒の種から得られる収入が、家計を支える元となるからです。

 

 

 

 僕は時々思う事があります。よくも日本国民1億人の食を支える食料があるものだと。

それも飽食の時代と言われる現代です。世界を見れば飢餓に苦しむ人々の数も底知れません。食育と言う言葉があり、食育がなされているのですが、食育の実態を僕は知りません。

食べ物を粗末にしてはいけないことを教えているのでしょうか。畑を耕す人のことを教えているのでしょうか。

 神はイスラエルの民を奴隷の国エジプトから解放し、イスラエルの民に与えると約束された地へと荒野の旅を導きます。その年月は40年にも及びました。荒野で、そのイスラエルの民に与えられた食料がマナでした。肉が食べたいと言えば、ウズラを与えました。命を支えるものはすべて神から与えられるのです。

 

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」<ヨハネによる福音書12章24〜25節>

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
正直に生きる(その2)

 ヒガンバナが美しい時期になりました。自然のものは時を知っています。有毒植物であるヒガンバナですが、戦時中には球根から澱粉をとったと聞いています。おそらく食糧事情が悪い中で、苦肉の策であったと思います。一昨日は十五夜でした。ススキの穂も出て、またヒガンバナも咲き、稲の刈り取りも始まりました。秋の風情が感じられるこの頃です。今日は畑に、聖護院大根の種を蒔く予定にしています。これもまた、時期のものです。

 

 また食の安全を脅かす事件が発覚しました。安心安全を謳い文句にしている食品が多く見られますが、それは特別な事ではありません。命を養う物に疑いを持ったらキリがないのですが、安心して口に入れることが出来る物、その上、安全な物であることは当然です。

 聞くところによると、農家では出荷用の野菜と自家用の野菜を区別して栽培しているいそうです。出荷用の野菜には農薬を使い、自家用の野菜には農薬を使わないとか。確かに農薬を使えば、見た目に美しく、規格に合ったものが多く収穫できるのです。日本人はとにかく見た目とか、規格について厳密すぎるのです。工業製品ならしも、自然の農作物です。そうそう人の思うようにはならなくて当然です。

 

 

 まあ、そういった農作物ばかり食べているのではありませんので、体内への蓄積も許容範囲の範疇に収まることだとは思います。因みに僕は畑の作物には、農薬を一切使用しません。ですから畑で採れた物を、その場で食べることが出来るのです。

 この度の事件も、元市場長と都知事との話に食い違いがあります。真相はわかりません。人は自分を守るために、嘘と言う技を習得しました。嘘は、人の本能的なものであるらしいです。何も難しいことはありません。正直に生きましょう。しかしこれが最も困難な生き方なのです。世には権力によって生きている者があまりにも多いのです。

 

 偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、 『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」。それからイエスは群衆を呼び寄せて言われた、「聞いて悟るがよい。 口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。<マタイによる福音書15章7〜11>

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
アクセスの更新

アクセスの更新を致しました。 

 

| comments(0) | trackbacks(0) | お知らせ |
神の国への道

 エアコンの風に揺らめくカレンダーが随分薄くなってきたなと、壁を見つめながら、もう9月も10日を過ぎたのだと月日の巡る早さに心を奪われています。春が来るのを待ち望んだのがつい最近の様に思われてなりません。

 

 僕はテレビを見ることはあまりしません。しかし一日の出来事を寝る前にインターネットで見る時、良い話題があまりにも少ないことに憂いを感じています。毎日の様に殺人、窃盗、事故のニュースの話題がない日はないと言ってもよいでしょう。まさにこの世は病んでいます。最近では、中学生の殺人事件がありました。犯罪の低年齢化が問われている昨今です。物が豊かになる事に反比例して、人の心は病んで行くようです。自己中心の考えを植え付けられたかのように、自らの欲望を果たすためには手段を選ばないのです。人には欲が付いて回るのが常であり、僕にも欲はあります。欲が無くなったら人ではありません。

 

 

 人には7つの欲があると言われていますが、ただ、その欲が自分だけを喜ばせるための欲である場合、快楽を求めるための欲である場合、人を陥れるための欲である場合、罪と紙一重と言わざるを得ないと思うのです。欲の顛末は死です。しかし、欲の全てが悪いものであるとは言い切ることは出来ません。何か物事に対する意欲など自らを高揚するための欲もあるからです。学習意欲などはその一例です。

 自己中心とは一線を引いて、時として自己主張しなければならない時があります。その事が正しいかどうかは神のみが御存知です。肝心なことはいかなる場合でも、聖書が教える通り謙りの心によって物事に対応することではないかと僕は考えます。

 イエスは神と等しい身分でありながらも、何ひとつ自らの欲を露わにせず、謙り十字架の死に至るまで従順でした。キリストの使徒、パウロはキリストを模範とするように勧めています。僕たちも、全ての人が謙りの心を持つことが出来たら、どんなに穏やかな世界を創ることができることでしょうか。神の言葉に支えられつつ、神の国の完成を待ち望みたいと思います。

 

 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。<フィリピの信徒への手紙2章6〜11>

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
落穂ひろい

秋は夕暮れ。
夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の、寝どころへ行くとて、三つ四つ、
二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。
まいて、雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。
日入り果てて、風のおと、虫の音など、はた言ふべきにあらず。

 

 枕草子の秋の段の部分です。秋の夕暮れには、夕焼け空が似合うように感じる僕です。春に植えた野菜も収穫はほとんど終わりました。昨日はスイカ畑の後始末の仕事をしたのですが、草むらの中から取り残したスイカが出てきました。スイカ好きの僕にとっては、思ってもみない喜びです。旧約聖書の申命記には、収穫にあたっての規定が記されています。麦はすべて刈り取ってはならない。落ち穂を拾いに引き返してはならない。ブドウはすべて収穫してはならない。やもめたちの取り分として残しておかなければならない。

 記憶はおぼろですが、確かこのような規定であったと思います。草むらから出てきたスイカも僕がとるべきものではなかったかもしれません。やもめのためとは言いませんが、野の生き物のために残しておくべきものであったのかもしれないのです。

 

 

  子供のころ、干し柿を作るために柿の収穫を手伝わされました。その際、親に言われたのは、柿の木の一番高いところに生っている柿の実は残しておかなけれがならないと教わりました。その柿の実のことを“年の実”と言っていました。どいう言う意味があったのかわかりませんが、僕の親も親にそのように言われてきたものであることと思います。神への感謝のしるしかもしれません。或いは野の生き物への贈り物かも知れません。

 

 神の律法は弱い者への配慮を欠くことはありません。旧約聖書のレビ記、民数記、申命記などは読んでいるだけで少しばかり堅苦しく思えるのですが、人が神の祝福を受けて生きてゆくための知恵を授けているように読み取ることが出来ます。神は弱いものを決して見捨てはしないのです。生きる道を備えて下さるのです。

 

 ホームセンターの店先には、既に秋野菜の苗が売られているので、また畑を耕し何を植えようかと考えています。

 

 畑から穀物を刈り取るときは、その畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい者や寄留者のために残しておきなさい。わたしはあなたたちの神、主である。<レビ記23:22>

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
| 1/1PAGES |