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愛する教会

 今日は、いよいよ大晦日となりました。この一年を振り返り思い起こすと、僕にとっては、教会のことを考えることで始まり、今日も教会のことを考えています。今年は久しく考え練り上げた教会を建てることが出来ました。そんなにお金がある訳ではないのに、神は、その思いを成し遂げさせてくださいました。教会建築にあたっては、多くの人の協力を得、また祈りに覚えていただきました。感謝に堪えません。

 

 その教会も未だ会員はいない状況です。神のために建てた教会は、神の御手の内にあります。独りで礼拝を捧げることは常です。そのような中にあっても、時として礼拝に訪れて下さる方があることは、僕にとって大きな支えになっています。そして地域でも教会の存在が認知されてきました。

 

 明日から始まる主の2017年をも、ひたすら神を仰ぎ、人に仕える年にしたいと思うのです。はかり知ることのできない神の意志を順境にある時も、逆境にある時も喜んで受け止めたいと思います。

 この一年の恵みに感謝を捧げつつ、平安を祈ります。

 

 

「ヤコブよ、何ゆえあなたは、『わが道は主に隠れている』というのか。イスラエルよ、何ゆえあなたは、『わが訴えはわが神に顧みられない』と言うのか。
 あなたは知らなかったのか、あなたは聞かなかったのか。主はとこしえの神、地の果ての創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵は測りがたい。
 弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れ果てて倒れる。
 しかし、主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、昇ることが出来る。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」<旧約聖書:イザヤ書40章:2731

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光であるイエス・キリスト

 今日はクリスマス・イブになりました。クリスマスが来ると、もう今年も残り少なくなったことを改めて思います。僕の記憶に残るクリスマスは、まだ小学校にも通っていなかったた頃であると思います。朝起きてみると、枕元に赤い長靴の中にお菓子の詰まったものが置いてありました。まだその頃の僕は、クリスマスと言うものが何であるかを理解してはいなかったと思います。

1225日がイエス・キリストの誕生日であると言う証拠はありません。教会は、教会の伝統として1225日をクリスマスと定めています。因みに、クリスマスほどの華やかさはありませんが、キリスト教で最も重要視される行事は復活祭です。

 

 

 新約聖書は、マルコによる福音書を除いて、イエス・キリストの誕生の記事を記しています。その中でもヨハネによる福音書に記された記事は、他の福音書とは異色の表現をしています。「初めに、言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この方は、初めに神とともにおられた。」このように記されています。「言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」と続きます。言はギリシャ語でロゴスと言います。ロゴスとは、イエス・キリストを意味します。言と言う箇所をイエス・キリストと読み替えると理解しやすくなります。

 

 この世を照らす真の光としてこの世に来られたイエス・キリストを暗闇であるこの世は理解しなかったのです。暗闇の中では悪がはびこります。この暗闇の中に光であるイエス・キリストが来られ暗闇を照らし出されたのです。イエス・キリストをこの世に遣わされたのは、神の人類への愛の故です。「神はその独り子をお与えになるほどに、世を愛された。独り子を信じる者一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」とヨハネは記しています。

 イエス・キリストを世の光として受け入れ、神の測り知ることの出来ない人類への愛に応えて生きることが僕たちに与えられた使命であると思います。

 

 真の光であるイエス・キリストに触れる時、神の愛の奥深さを知ることになります。クリスマス・イブの今夜、そしてクリスマスの明日、教会を訪ねてみてください。

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世を愛された神

  昨日の朝は、ほんの短い時間ではありましたが、雪が舞いました。今年初めて里に下りてきた雪です。いよいよ本格的な冬の訪れのようです。五年日記を見返してみると一昨年は既に相当の雪が降っていました。ウインタースポーツをしない僕にとっては、正直なところ、雪は厄介者です。しかし、天地創造の時から変わることのない天の法則によるものと定められた神の知恵は、ところによっては雪を良きものとして迎える業を与えられました。

 

 

 明日の日曜日には、アドベントクランツに残った最後の蝋燭に火が灯されます。いよいよ再来週は、クリスマスです。今年は丁度、クリスマスと日曜日が重なりました。クリスマスによってもたらされた人類に対する神の愛を、今年もまたかみしめたいと思います。

このように思うとき、世間の年中行事としてのクリスマスは、空しいものとなります。この特別な日を空しく過ごしてはなりません。このことを世に広く知らしめることが、教会に、そしてキリスト者に課せられたものであると僕は思うのです。クリスマスを楽しむことを僕は否定しません。しかしその前に、神の愛を知るべきであると思うのです。イエス・キリストが降誕されなかったら、キリスト教は存在しません。

 

 「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」<ヨハネによる福音書3章16節>

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素朴さの美

  今年も、年末に楽しみにしていたフォレスタ名古屋公演にいって来ました。フォレスタとは、音楽大学出身の若い声楽家のグループです。いつもそうなのですが、花一輪として飾っていない舞台。あるのは一台のピアノだけです。そういう舞台からの歌声は、他に飾るものなど必要としないのだと僕は思っています。真の美しさは、素朴さの中にあるのかもしれません。身を着飾っても心がすさんでいたら、その華やかさは単なる飾りでしかなくなってしまいます。分相応に正直に生きること、これが一番美しい生き方であると思います。

 

 しかし、このように生きることが出来ないのが人の弱さです。人に良く見られたい。人の上に立ちたい。このような思いが心の中にうごめくのです。そしてついには、自らの分を忘れて人を裁くことさえあります。これが普通の人なのかもしれません。人はあたかも、自分の力で生きているような錯覚に陥ります。一人歩きを始めた人は、神に背を向けたことをなんとも思わなくなってしまいます。一人歩きは、神への背信行為です。

 地位、財産を得たとするならば、自分の功績、自分の努力と自らを誇りに思うのです。しかし、この世の全ては神が造り給わったものであり、僕たちは神により、それらを頂いているのです。決して自分の力ではありません。この事実を知る時、人は神と隣人の前に謙ることが出来るのです。

 

 明日の礼拝では、アドベントクランツの3本目の蝋燭に火が灯されます。クリスマスがいよいよ近くなってきたことを覚えつつ、謙りの心を与えられることを祈り求めましょう。

 

 

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。
力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。

その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。
その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

<ルカによる福音書1章47〜55:マリアの賛歌>

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愛の光かがやき

今年も残り少なくなりましたね」。と言う言葉がこれからの挨拶になる時期になりました。明日の礼拝では、アドベントクランツの二本目の蝋燭に火が灯されます。僕はこの蝋燭の火を見るごとに、ヨハネによる福音書1章の御言葉を思い起こすのです。

 

 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。<ヨハネによる福音書1章1〜5>

 

 暗闇の中で揺らめく蝋燭の炎は、柔らかな光を放ちます。電球や蛍光灯の光の様に物をはっきりと照らし出すものではありませんが、その光の中に温もりを感じるのです。現代の様に電気が普及していなかった時代、蝋燭や灯篭の光がどれほど人に安堵感を与えたことでしょう。キリストはこうした暗闇の世界に、光として遣わされたのです。暗闇を照らし出す光、これこそキリストです。

 

愛の光 かがやき 暗闇を照らし出す

わが主イエス世の光 自由を与える力

いのちの御言葉

輝け主の栄光地の上に 心を燃やしたまえ

あふれよ主の恵みあわれみ 

この地を生かしたまえ

https://www.youtube.com/watch?v=Heq1sBdhR0M

 

 

 ヨハネによる福音書は、異邦人信徒を対象として書かれたものであると考えられています。そしてその目的は、「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなた方が信じるため、また、あなた方が信じて、イエスの名によって、命を得るためである。」ことであると記されています。これは2000年前の話ではなく、キリストを信じつつ今を生きる僕達、そしてキリストを信じ、未来に生きる人々にも与えられる恵みであります。アドベントクランツの光を心の内に灯しつつ、心静かに救い主であるイエス・キリストの降誕の日を待ち望みたいと思います。

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