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キリストの再臨

 あと一か月待てば桜の花が咲く時期になるのだろうなと思うこの頃です。時の流れは遅いようであり、また早いようでもあります。しかし神の定められた天の法則、地の法則に従って止まることはありません。世が明けて朝になる事に何の疑問も持たない人はおそらくいるはずはありません。しかし、この事は神が定められた恵みです。この恵みは日々繰り返されるのです。

 時は巡り巡って、今年も紅梅が花を咲かせてくれました。いつも通る道の傍らにある紅梅なのに、今日まで気が付きませんでした。未だこの寒さの中にあっても春の足音は確実に近くにまで忍び寄っているのです。僕が待ちに待った春の訪れの一歩です。

 

 神は誓われたことを必ず果たされます。それは聖書が教えています。夜となり朝となるもの天地創造の時から変わることのないことです。これも神が制定されたものです。僕は創造主である神を全く信頼し、約束されたイエス・キリストがもう一度、この世に来て下さる日を日毎に祈り待ち望んでいます。復活の後、イエス・キリストは「私は再び来る。」と言われ天に昇られました。今は神の右に座しておられるのです。

 

 

 その日がいつになるのかは誰もわかりません。その日は盗人が来るようにやって来ると聖書は教えています。イエス・キリストが天に昇られてから、既に2000年の時を経ました。

当時の人々は、イエス・キリストが再び来て下さる日が、今にも起こると考えていたのです。2000年の時の流れは、遅いと言えば確かに遅いものです。しかし僕たちは、イエス・キリストが再び来てくれる日一番近い日を生きているのです。もしかしたら明日にも起こるかもしれないのです。その日を念頭に置きながら、愚かな者とは言われない生活を営んで行きたいと思います。

 

「 主は、号令と、御使いのかしらの声と、 神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」<テサロニケの信徒への手紙4章16〜17節>

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命のやすらぎ

 イチゴ狩りに行きたいと思い立ったのが、正月のことでした。友人の娘さんに連絡を取り、日取りを決めて一昨日、イチゴ狩りに行ってきました。僕は何よりの果物好きです。特にイチゴとスイカが好きで自宅の畑でも作っています。(イチゴもスイカも、実のところ果物ではなく、野菜なのですが。)久しぶりの息抜きの一日でした。

 日々仕事に追われ、夜になれば明日の仕事のことを考えなければならない状況が続いています。今回のイチゴ狩りは、そんな自分へのご褒美としても良いだろうと自ら考えています。

 

 聖書は、明日のことを思い煩ってはいけない。明日のことは明日自身が思い悩むことだと教えています。しかし、そうも言ってはいられないのが現実で、日々平安を賜ります様にと祈るしかありません。午後五時、終業の時刻です。今日もやっと終わったと張りつめていた神経が、緊張からほぐされるひと時です。ハイデルベルグ信仰問答問1は、生きている時も死ぬ時もあなたの唯一の慰めは何ですか。と問うています。答えは、簡単に言えば、自らは主のものである。と教えています。僕はこの信仰問答の問一に、間違いなく慰めを感じ、僕は主のものなのだと言うことに確信を持ち、安らぎを覚えるのです。

 

 

 明日から始まる新しい週も主が共に歩んで下さり、この世にあっては無きにも等しいこの僕をも覚えて下さること、そして揺るがぬ平安の内においてくださることに感謝を捧げます。

 

 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日、自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。<マタイによる福音書634

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僕たちの神

 今日は建国記念の日です。僕にとってはこの言葉は、僕の頭から消え失せかけてしまっていました。思えば34年前、僕が浜松市に住んでいた時のこと、僕が通っていた教会で平和と信教の自由を守る会が開かれ出席しました。教会が会場であったことには特に意味はなく、空いている会場が、教会しかなかったからという事でした。牧師の講演でありましたが、内容は既に記憶にありません。ただ、建国記念の日は史実ではないと言う言葉だけは脳裏に焼き付いています。戦中、戦前であれば、おそらくこのことの次第を教育されたと思います。戦後、新憲法の下で、信教の自由は保障されました。時を得て、このことについて深く学んでみたいと思います。

 

 現代社会は、自由が保障された時代です。僕たちは何と素晴らしい時代を生きているのでしょうか。しかし、取り違えてはいけないことは、何をしても善いと言う事ではありません。反社会的行為は罰せられます。また個人においては、個人主義は善しとしても、利己主義は周囲に少なからず悪影響を与えるものです。個人主義は、自らの行動に責任を負わなければなりません。それに対し、利己主義は勝手気ままな行動となります。どちらも和を以って尊しとなすと言う文化の根強いわが国には、受け入れがたいものであるかもしれません。変わり者と言われるのが関の山です。

 

 

 イエス・キリストも当時のユダや社会の中では、変わり者と思われたかもしれません。このことは聖書の各所に見受けられます。このことが神を冒涜する者としてユダヤ社会の反感を買い、十字架の死に至る訳です。しかし今やキリスト教は、世界三大宗教の一つに数えられます。その経緯の中には、迫害に遭い殉教の死を遂げた人々も数知れません。今でも、クリスチャンと言う事で何かしらの差別的扱いを受けている人々も少なからずある事と思います。

 

 クリスチャンとは、神によって信仰を与えられた者です。神から与えられた信仰。これほど尊いものはないと思います。世々のクリスチャンを強く生かしめた聖霊の力強さが僕たちにも与えられますように祈ります。与えられた信仰を恥とはせず、この世の中で、そして未来への約束の中で堂々と胸をはって、神の教えに従順に従うものとなる様にと僕たちの信じる神はいつも共にいて下さるのです。

 

 わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力である。<ローマの信徒への手紙116

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サーバントリーダー その2

 今日は立春です。この寒さの中にあっても春の一文字に心なしか温かなものを感じます。

教会歴は、明日の日曜日から受難節前に入り、受難節を経て復活祭に至ります。因みに今年の復活祭は416日です。復活祭は不定祝日で、春分の日の後の最初の満月の直後の日曜日とされています。何か奥深いものがあるように感じます。ですから春分の日の後の最初の満月がいつになるかで年毎 に復活祭の日が異なる訳です。復活祭の事に関しては、また記す機会があると思います。

 

 先週に続いて気になるのが、アメリカの今後がどうなるかと言う事です。今や大統領の一言で世界をも動かす力を持った国だからです。トランプ大統領の矢継ぎ早の大統領令の発行には驚くばかりです。反対者はあったとは言え、アメリカ国民がアメリカの将来を託して選んだ大統領です。他国民が中傷する余地などないと思うのですが、それにしても少しやり過ぎではなかろうかと思います。権力を得た者は、あたかも自分一人でその権力を勝ち得たような錯覚に陥ります。それは、トランプ大統領のみならず古今東西を通して、そのような傾向にあります。

 

 

 以前にもこのブログに記しましたが、今やトップリーダーと言う時代は終わりました。代わって登場したのがサーバントリーダーです。サーバントリーダーとは、わかりやすく言えば仲間を下支えするリーダーです。この意味でイエス・キリストはサーバントリーダーの最たるお方であったと言えます。世を愛された神がイエスを信じる者が一人として滅びることなく永遠の命を得るために神が世に遣わされた方です。僕たちは、神の前に謙ることが求められます。なぜならば神は高ぶるものを退け、謙る者に恵みを給うからです。しかし、この謙りも真心からのもの、信仰を拠り所にするものでなければなりません。

 

 アメリカがくしゃみをすれば、日本は風邪を引くと言われた時代がありました。今の時代もそうかもしれません。アメリカの出来事を他人ごとと割り切って見ているわけには行きません。わが国の政治家たちは、アメリカに遠慮することなく、言わなければならないことは、はっきりと言うべきであると思います。

 

しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」<ヤコブの手紙46

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