<< March 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>

命の躍動

 

 昨年秋、「べっぴんさん」の放送が始まりました。僕は、このドラマが終わるころには桜の花が咲くのだろうなと、春の来るのを待ちわびたのです。当地での桜の状況は、蕾がやや膨らんできたところです。開花は4月になってからだと思います。今、僕の部屋では、昨年花芽を付けたシンビジウムとデンドロビウムが咲き、目を楽しませてくれています。待つことは、忍耐のいることです。それにしても過行く日は、早く感じるものです。

 

今年の復活祭は、4月16日です。陽春の日差しの中で迎える復活祭になると思います。復活祭の日は、年によって異なり、春分の日の後の最初の満月の直後の日曜日と定められています。言うまでもなく復活祭は、キリストの復活を祝う教会の祝日です。聖書によると、また歴史的にも未だかつてキリスト以外に復活した人はいません。復活とは甦ることです。甦ると言う漢字は、更に生きると書きます。同じ“よみがえり”でも、蘇生の蘇の字を充てるよみがえりとは意味が違います。蘇生の蘇りは一時的なもので、また必ず死が訪れます。永遠に生きる甦りではないのです。

 


 僕は個人的にクリスマスより、復活祭の方が心に染み渡るものがあります。長く厳しい冬を乗り越えた生き物達の息吹の中で迎える復活祭は、命にあふれているのです。キリストの復活を覚える中で、ひとりひとりに与えられた尊い命を有り難く考えさせられる時であります。僕たちは礼拝の中で、信仰告白として使途信条と言うものを唱和します。その中で、「3日目に死人のうちより甦り」と、キリストの復活を告白しています。もしキリストが復活していなかったとすれば、今の教会は存在しません。キリストの復活はそのくらい重要な意味を持つのです。
 そして今、僕たちはキリストが再びこの地上に来て下さる日を待ち望んでいます。それは、キリストが「私は、再び来る」と約束さえれたことが聖書に記されているからです。聖書は物語ではなく、今も昔も活きて働かれる神の言葉なのです。

 

 キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。
 更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。

 そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。<コリントの信徒への手紙第一 15:12〜20

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
待つことは忍耐

 眠っていた生き物たちが、再び生を営む本格的な春の訪れの時期になりました。僕が待ちに待った春の訪れです。全地は命にあふれます。そして今年も僕の畑仕事が始まります。先日は肥料を用意し、用意は整っています。毎年、真っ先に植え付けるのがジャガイモです。父母が開墾して作った畑を、そしてその畑のお陰で命を繋いでくることが出来た土地を粗末には出来ません。

 

 待つと言うことは忍耐のいることです。しかし、必ず時は巡り訪れることは間違いありません。時が来ることを知っているから待つことが出来るのです。例えば自動車を運転していて信号が赤に変わると停車しなければなりません。停車中の時間はとても長く感じるものです。しかし、必ず青信号に変わることを知っているので待つことが出来るのです。違法に見切り発車をすれば事故の元です。古来、ユダヤの人々はキリストが世に現れることをいかなる思いを以って待ち望んだことでしょうか。旧約聖書にはキリストの誕生を予兆する記事が数多く記されています。聖書は今も昔も変わることなく、活きて働かれる神の言葉です。その言葉を信じ、キリストの誕生を待ち望んだのです。

 

 

 キリストは世に現れました。しかし、特定の人々はキリストをキリストとして認めませんでした。そして十字架に掛け、殺してしまったのです。しかし、キリストの救いは十字架の死で終わりではありません。キリストが十字架に掛けられたことは、多くの人が知るところですが、その後のことについては余り知られていないようです。

 キリストは十字架に掛けられた後、3日目に復活されたのです。死んだ後、復活するまでの3日間は、陰府に下りキリストが現れる以前に死んだ人々に、福音を述べ伝えたと言われています。今は、天の父なる神の右に座しておられるキリストは、「私は再び来る。」と言われました。それから2000年の時を経ました。未だキリストは来ておられません。しかし、キリストの言葉は、そのまま信じるに値します。キリストが再びこの世に来て下さることに希望を持ち日々祈りを捧げつつ、その日を待ち望みたいと思います。

 

エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、 その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。<旧約聖書イザヤ書1112

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
へりくだる心

 昨日、一昨日は真冬に逆戻りしたような天候でした。この時期、寒さと暖かさを繰り返しながら本格的な春へと時が流れてゆくのですね。せっかく咲き始めた梅の花も雪に覆われ寒々としていました。しかし、春は決して遠くはないと誰もが確信していると思います。早春賦の歌を思わず口ずさんでしまいます。春は名のみの風の寒さや♪〜 まさに早春賦です。

 

 学校では卒業式の時期です。春は別れの時期であり、また新しい出会いの時期でもあります。僕も何度も別れと出会いを繰り返してきました。別れてそれきりになった人もいれば、未だ付き合いのある人もいます。僕は50代半ばとなりました。人との関わりの人生に重みを感じています。人との関わりには不思議なものがあると思うのです。

 イエス・キリストは、自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。と教えられました。旧約聖書の律法を引用されたのです。4000年にも及ぶこの言葉を、身を以って心から信じ、実践した人はどれだけいることでしょうか。非常に重みのある言葉です。聖書は、未だ自分を憎んだ者はいないとも教えています。これは確かな事であると思います。人は誰も自分が可愛く、大切なものです。また、そうでなくてはなりません。それは、僕たちの身も心も、僕たち自身のものではなく、神から与えられたものだからです。同じように僕たちの隣人も、神から身と心を与えられているのです。

 

 

 同じ神から造られた者同士、お互いを認め同じ思いを以って神を讃えなければならないのです。しかし、現実はこのようにはゆきません。これが人の愚かさです。自分は可愛くても、人のことはどうでもいい。自分を理解してくれない人、自分の気に入らない人とは挨拶もしません。自己中心の極みです。高ぶりの心です。挨拶とはその意味を深掘りしてみると、心を開いて相手に迫ると言う意味があります。人間関係の基本中の基本です。心を頑なにしてはなりません。イエス・キリストが柔和で心の謙った方であったように、僕たちもイエス・キリストに倣うものであるべきなのです。

 

しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。『神は、高ぶる者を退け、謙る者に恵みをお授けになる。』<ヤコブの手紙46

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
受難節に寄せて

 昨日は桃の節句でした。この言葉もずいぶん聞いていないように思います。旧暦の節句を新暦にあてたものですから、桃の花が咲く時期とはかけ離れています。古来から日本人の自然を相手にした物事の表現には美しいものが数多くあります。その多くは詩歌に歌われており、表現の豊かさに驚かされるばかりです。

 

 教会歴は明日から受難節に入ります。キリストの復活祭までの間、いえす・キリストの受難を覚える期間です。因みに今年の復活祭は、416日になりなす。春分の日の後の最初の満月が遅いのでしょう。聖書によりますと十字架の刑場で、ポンテオ・ピラトは、「この人からは何の罪も見いだせない。」と言われました。まさにイエス・キリストは何一つ罪を犯さなかったのです。病人を癒し、死者を甦らせ、当時、罪人と呼ばれた人たちと交わり悔い改めさせ、友無き者の友となりました。この罪のないイエス・キリストがどうして十字架の刑を受けなければならなかったのでしょうか。十字架の刑は、当時の刑罰としては、いちばん惨めな刑でありました。

 

 

 聖書は、罪の代価として支払われるものが死であると教えています。罪のないイエス・キリストが十字架にかかり死にました。その罪はどこから来たのでしょうか。それは紛れもない僕たちの罪なのです。本来であれば罪を犯し、日々その罪過を大きくしている僕たちが十字架にかけられなければならないのです。イエス・キリストは、神の測り知ることのできない計画により、僕たちに代わって十字架にかけられ死んだのです。イエス・キリストの死によって、僕たちの罪は赦されました。そして永遠の命が約束されたのです。

 この受難節の間、イエス・キリストの苦悩を思い日々、慎み深く生きてゆきたいと思います。

 

 神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。<ヨハネによる福音書316

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
| 1/1PAGES |