昨年秋、「べっぴんさん」の放送が始まりました。僕は、このドラマが終わるころには桜の花が咲くのだろうなと、春の来るのを待ちわびたのです。当地での桜の状況は、蕾がやや膨らんできたところです。開花は4月になってからだと思います。今、僕の部屋では、昨年花芽を付けたシンビジウムとデンドロビウムが咲き、目を楽しませてくれています。待つことは、忍耐のいることです。それにしても過行く日は、早く感じるものです。
今年の復活祭は、4月16日です。陽春の日差しの中で迎える復活祭になると思います。復活祭の日は、年によって異なり、春分の日の後の最初の満月の直後の日曜日と定められています。言うまでもなく復活祭は、キリストの復活を祝う教会の祝日です。聖書によると、また歴史的にも未だかつてキリスト以外に復活した人はいません。復活とは甦ることです。甦ると言う漢字は、更に生きると書きます。同じ“よみがえり”でも、蘇生の蘇の字を充てるよみがえりとは意味が違います。蘇生の蘇りは一時的なもので、また必ず死が訪れます。永遠に生きる甦りではないのです。
僕は個人的にクリスマスより、復活祭の方が心に染み渡るものがあります。長く厳しい冬を乗り越えた生き物達の息吹の中で迎える復活祭は、命にあふれているのです。キリストの復活を覚える中で、ひとりひとりに与えられた尊い命を有り難く考えさせられる時であります。僕たちは礼拝の中で、信仰告白として使途信条と言うものを唱和します。その中で、「3日目に死人のうちより甦り」と、キリストの復活を告白しています。もしキリストが復活していなかったとすれば、今の教会は存在しません。キリストの復活はそのくらい重要な意味を持つのです。
そして今、僕たちはキリストが再びこの地上に来て下さる日を待ち望んでいます。それは、キリストが「私は、再び来る」と約束さえれたことが聖書に記されているからです。聖書は物語ではなく、今も昔も活きて働かれる神の言葉なのです。
キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。
更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。
そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。<コリントの信徒への手紙第一 15:12〜20>