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沈黙の神

 昨日は初夏を思わせるような日和でした。この時期になると同門下の生け花を習っている方が蕨採りに訪ねて来てくれます。もう10年ほどの年中行事のひとつになっています。

この方とのお付き合いは、僕が名古屋で生け花を習い始めたことからのことでかれこれ30年ほどになります。おおよそ僕の母親ほどのお年ですが、同じ趣味を通しての交わりは心の内に穏やかな気分を醸し出します。

 僕が幼いころは、蕨は我が家の現金収入のひとつでした。5月の連休になると母は、朝早くから僕を連れて、蕨採りに出かけました。当時、蕨一束で20円から30円で売ることが出来たと思います。

 

 気象の変異のせいか蕨の出る時期が早くなり、芽を出すとすぐに葉を広げてしまってきているのを身を以って感じている僕です。自然は僕たちに様々なことを教えてくれます。今年はいつもの年と違うと思うことが数多くあるのです。それをないがしろにしていると自然は人に対して牙をむくことになる事だと思うのです。神が定められた地の法則が人によって歪められていると言う事です。先日には、クビアカカミキリムシが桜の木を食害し枯死させてしまう現実があることをTVで知りました。クビアカカミキリムシは中国に生息する昆虫で、中国からの輸入品に付着して国内に侵入したようです。これは日本だけの問題ではないそうです。また園芸種が野生化し、在来の植物を侵してしまっていることをも知りました。

 

 

 僕の住んでいる地域を見ても、昔いくらもあった植物が無くなったものも少なくはありません。昆虫にしてもそうです。今からでも決して遅くはありません。かつての状態に少しでも復古させることは出来るはずです。神から地を委ねられた人間は、その責任を負うべきだと思います。人がどうあるべきか、今も活きて働かれる神は、昼は物言わず夜は語らず人が何をなすかを沈黙のうちに見ておられるのです。

 

 人に害が及んでから対策を取るのでは遅すぎるのです。かつて3大公害と言われた公害は、その象徴です。神がご自身の像に似せて造られた人は、神の教えに立ち返らなければなりません。そこには、僕たちのとって忍耐のいることも数多くあると思います。その忍耐も次の世代に、この地を本来あるべき形に引き継ぐ責任なのです。

 

聖書の言葉

 動いている命のあるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。私はこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。<創世記93

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貧乏くじ

 一週間前の日、僕が学ぶ生け花教室の“師匠を囲む会”が名古屋で行われました。生け花を始めて35年余り。今でも稽古のために用意された花材との出会いは、いつも新鮮な気分を醸し出してくれます。会には30名余りが集まりました。同じ門下で生け花を学ぶ仲間たちです。思いを一つにすると言う事を改めて思い知らされ、懐かしい方々との出会いもあり、幸福な一日でした。この日のために、テーブル花がそれぞれのテーブルに用意され、閉会の時にくじ引きで当たった人が持ち帰ることになりました。貧乏くじは数多く引いてきた今までの僕の人生ですが、この日は特別でした。テーブル花が当たったのです。他に当たったものと言えば、郵便局のくじで一等賞が当たったくらいです。景品は扇風機でした。

 

 

 

 僕が引いてきた貧乏くじは、僕に定められたものだと思います。それは、僕の性分を知る神が定められたものです。思いあがることがない様にと。幸運が続くと人は思いあがる傾向にあります。それを羨んでみるのが人の心ではないでしょうか。どうして自分はこんなに惨めなのだろうかと、人との比較の中で生きるのが人の心理です。

 しかし、いつまでも惨めなわけではありません。この世で惨めな思いをしただけ、やがて訪れる新しい天と地で受けるものは、栄光に輝くものが備えられているのです。悲しみの裏には、喜びがあるのです。苦悩の裏には、希望があるのです。決して神は僕たちを見捨てはしません。栄光に輝く御国へと凱旋する日を待ち望みたいと思います。

 

 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、艱難さえも喜んでいます。それは、艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちによって与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。<ローマの信徒への手紙525

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喜びの復活祭

 明日は僕が待ちに待った復活祭です。イースターとも言います。復活祭とは、キリストが十字架に掛けられて死んだ後、3日目に甦られたことを記念するキリスト教の祝日です。

人は死んだらお終いではなく、その後にも神の救いがあり復活と永遠の命の約束があるのです。ですから人の死は悲しいものではありますが、忌むべきものではありません。愛する人との死別は、今までの人生を無にしてしまうようなものです。聖書には教えられていませんが、亡き人と再び会うことが出来ると言う可能性があるのです。それは神のみが知っておられることです。

 

 

 キリストは、人類最後の仇である死をも足の下に置かれました。死に勝利されたのです。ですから僕たちは死を恐れることはありません。今この瞬間に生きている僕たちの生きる目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。そして、キリストが教えられた、二つの戒めと神を愛し、自分を愛し、隣人をあいする三つの愛に生きることです。

 人は神が天地創造の時に、神のかたちに似せて創造されました。ですから創造主である神を慕う心が誰にもあるなずです。人はサルから進化したとか、輪廻転生と言う話を耳にします。いわゆる進化論や仏教の思想です。しかし、聖書が教える創造論こそが人生の意味を知りたいと言う心の渇きに応える唯一の道であると思います。

 

 生き物が眠りから目覚め息を吹き返し、神の定められた法則に従って神の栄光をあらわすこの時期、共にキリストの復活の喜びを分かち合いたいと思います。

 

 この朽ちる者が朽ちない者を着、死ぬべきものが死なないものを着る時、次のような言葉が実現するのです。「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」<コリントの信徒への手紙第一155455

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尊い命

 暖かな日が続くようになって加速度的に春めいてきたのを身を以って感じる僕です。桜の花が満開になった地域が19地点あるとのこと。殊に桜の花に日本人の心はひきつけられるようです。僕も26年前に家の片隅に、ソメイヨシノを植えました。昨年は八重桜を植えました。そして今年は河津桜を植えたのです。成長を楽しみにしています。僕は、これらの桜の木と共に年を重ねてゆくのです。

 

 このような長閑な中にあって、世界を見渡せばパレスチナ問題、シリアへのアメリカの攻撃、北朝鮮のミサイル発射など恐ろしい話題が絶えません。決して対岸の火事と言う風に安穏としていられないとおもうのです。アメリカの出方によっては、日本の米軍基地も攻撃の標的になり得る可能性があるのです。

 

 

 人が同じ人を殺すなどと言うことはあってはなりません。同じ神に造られた者なのです。神が造られたものの中で、同じ種同志が殺しあうのは、人だけではないでしょうか。国内においても、殺人事件がマスコミの話題にならない日がないと言っても過言ではありません。命の尊さを自らが知れば、人の命の尊さも理解できるはずです。この世は病んでいます。これは今に始まったことではありません。人類の歴史そのものです。

 

 一昨日は、官房長官が教育勅語を憲法に触れない限りにおいて、教育に取り入れてもよいのではないかとの発言がありました。わが国の将来を憂い得る発言と思いました。世界人類が平和でありますようにとの立札を街頭で見かけることがありますが、その根拠は別として、まさにその祈りに同感です。

 

 わたしの民よ、心してわたしに聞け。

 私の国よ、わたしに耳を向けよ。

 教えはわたしのもとから出る。

 わたしは瞬く間に

 わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。<旧約聖書:詩篇514

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四月馬鹿

 今日は新年度の始まり、祝福の日でもあり、新しい人生の門出となる方々も多いことと思います。そして今日はエープリルフールの日です。ウィキペディアによると、エイプリルフールとは、毎年4月1日には嘘をついても良いという風習のことであり、4月1日の正午までに限るとも言い伝えられているそうです。英語の "April fool" は、4月1日に騙された人を指し、エイプリルフールは、日本語では直訳で「四月馬鹿」、中国語では「愚人節」、フランス語では「プワソン・ダヴリル」と呼ばれているとのこと。エープリルフールは、世界的なものなのかと思ったのです。しかし、僕は久しくエープリルフールと言うことを忘れていました。

 

 

 何が本当なのかわからない今のこの時代、虚偽、偽証が蔓延しているこの時代です。特別に嘘をついても良い日と言うのは必要がないのかもしれません。韓国では、元大統領が拘置されました。証拠隠滅の恐れがあるからとの裁判所の判断です。また本国でも、大阪の私立小学校設立にあたり、問題が浮上し国会でも相当の時間を要しています。証人喚問も行われましたが、当事者同士の間では話に食い違いがあります。洋の古今東西を問わず真実はひとつです。嘘は自らを守るために習得した人の知恵であると聞いたことがあります。いずれの問題も真相を知りたいと思うのが国民の総意であると思います。ただ、嘘をついても良いと言うことがあるならば、人を思いやる嘘です。総じて嘘が全て悪いものではないのかもしれません。しかし、正直に生きることが出来るのであれば、それにこしたことはありません。

 

 また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。

また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。 また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。

 あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。<マタイによる福音書5章33〜37>

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