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幼児虐待に思う

 僕が幼いころは、どこの家でも3月にはカラスミを作り、6月にはホウバモチを作るのが習慣のようでした。季節のお菓子です。僕はそれを楽しみにしていました。既製品が出回るようになったのはいつの頃からかは分かりませんが、そんなころからか我が家でもその習慣は途絶えました。僕たちに食べさせようと手間暇かけて作る母の姿が今でも目に浮かびます。僕は子供を持ったことはありませんが、母の姿を顧みる時、親が子を思う心には何にも比べ難いものがあります。僕たち兄妹は、母から人としての生き方をこんこんと説かれて育った思いがあります。それだけ母に愛されていたのだと思うのです。今は亡き母に感謝を捧げます。

 

 

 昨日も、一昨日も親による幼児虐待のニュースが耳に入ってきました。一件は生後3か月の子供への虐待でした。理由は泣き止まないのに腹を立てたと言うのです。その女性は、母親に子供の様子がおかしいと連絡し、病院へ連れて行き、診察した医師から警察に虐待の恐れがあると通報され、事件が発覚したのでした。病院では「ソファーから落ちた。」と説明したとことでしたが、医師が診察すれば判るのです。昨今は、幼児虐待の話題が絶えない時代となりました。虐待によって、死亡する子供も珍しくはありません。親から虐待を受けた者は、その子供に虐待を繰り返すと言う報告もあります。結婚をしたら、先ず、親となる心得を習得しなければなりません。愛されるべき子供が、その親によって命を奪われるようなことはあってはならないのです。子供が親の愛を受けて、その命を育まれる環境を整えなければならないと僕は考えます。

 

聖書の言葉

妻たる者よ、夫に仕えなさい。それが、主にある者にふさわしいことである。 夫たる者よ、妻を愛しなさい。つらくあたってはいけない。 子たる者よ。何事についても両親に従いなさい。これが主に喜ばれることである。 父たる者よ、子供をいらだたせてはいけない。心がいじけるかも知れないから。僕たる者よ、何事についても、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、目先だけの勤めをするのではなく、真心をこめて主を恐れつつ、従いなさい。 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。あなたがたが知っているとおり、あなたがたは御国をつぐことを、報いとして主から受けるであろう。あなたがたは、主キリストに仕えているのである。<コロサイの信徒への手紙31824

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共に歩まれるイエス

 

 昨日、そして今日は初夏の趣の一日でした。奄美・沖縄地方は梅雨入り、国会はテロ等準備罪の強行採決で混乱、このような中で今週一番世間を賑わせた話題は、眞子様の婚約者の発表でしょうか。いつになく目出度い話題の様に感じました。婚約者の男性は今の時代には似合わないような、今もこのような青年がいたのかと思うような好青年に思えました。このような話題となると付きまとうのが、芸能レポーターです。僕はこの類の人がこの上なく嫌いです。馬鹿げた質問、人の心に土足で踏み込んでくるような態度。このような職にある人を可愛そうに思うのです。しかし、世間の多くは、このような人々の報道を今や遅しと待っているのです。世の中には必要とされているのです。どこまで真実かわからない週刊誌を楽しんで読んでいる人たちがいるのです。熱しやすく冷めやすいのです。僕は批判的ですが、そのことが悪いことだとは言いません。ただもう少し静かに見守ってやってほしいと思うのです。

 

 

 

 華々しい話題の陰には、世の中の片隅に身を隠すかのように生きている人がいるのです。

それはホームレスの方々を指して言いうのでありません。心を病み自らの殻から抜け出せないこと。大通りを歩むことを嫌い、世の中の隅っこを歩んで、その日一日を精いっぱいの思いで生きている人がいるのです。イエスは、このような人々と思いを一つにされ、共に歩まれました。「安心しなさい。私が共に歩む。」と言われるのです。イエスと共に歩む人は高望みをしません。イエスがそうであったように遜りの生涯を貫くのです。そしてイエスの心から醸し出される平安の境地が与えられるのです。この事こそ、僕たちが生きて行く上で最も大切なことだと思います。

 

聖書の言葉

 友を侮ることは罪。貧しい人を憐れむことは幸い。<箴言1421

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隣人愛

 今週の日曜日は、献堂1周年記念日でした。そのことを心に留め、谷の百合キリスト教会の名に因み、百合の花を贈って下さった方がありました。その方はクリスチャンではありませんが、キリスト教に寛容であります。届いた花の箱を開けて驚愕の思いでした。箱の中には色とりどりの百合の花が何十本と入っていたのです。その気持ちを有り難く頂戴いたしました。早速、礼拝堂に生け込み、百合の花の芳しい香りで礼拝堂が満たされるほどで、あまりにも本数が多いので、自宅の玄関と客間にも生けたのでした。

 

 

 僕にとって花との対面は、心和むひと時です。人の心を頂くと言う事は、何にも代えがたいものがあります。聖書の言葉に、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」と言うものがあります。

 この言葉は、隣人に対するキリスト教的愛のあり方を示しています。この戒めは一般に黄金律として知られています。論語に「己の欲せざる所、人に施すこと勿れ」と言うのがあります。これは通常思いやりの心と解せられています。思いやりの心もまた愛の心であることに変わりはありません。ユダヤ教の教師にもこれに似た言葉があると言われています。

 

しかしイエスは、この人間感情の機微を超えて、それを宗教的愛の感情に高められます。単に消極的な態度を積極的にするだけではありません。それはこの戒めに、これは律法なり預言者なり、と言う言葉が付けられていることによって分かるのです。律法と預言者とはイエスが廃止するためではなく、成就するために来られた本当の目標だったのです。
 そしてそれは溢れる義の道、すなわち、神によって導かれる愛の道だったのです。その愛がここに戒めの形で提示されているのです。「隣人を自分のように愛しなさい。」と言うのもこれと同じ意味です。

 

聖書の言葉

 人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。<マタイによる福音書7章5>

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食の恵み

 昨日は初夏を思わせるような日和でした。立夏にふさわしい一日でした。藤の花が見ごろになり、僕は藤の花の香りに気分を良くしたのでした。藤の花は夏の訪れを知らせてくれるようです。僕の畑の春の仕事も昨日で一段落です。今年もいろいろと植え付けました。

ジャガイモ、レタス、サヤエンドウ、オクラ、ミニトマト、サトイモ、トウモロコシ、・・・・・

などです。今年初めてマスクメロンの栽培に挑戦しました。普段では滅多に口にすることのない野菜です。まだ植え付けたばかりですが、収穫が楽しみです。

 いつも畑仕事をしながら思うことは、神が人に自ら地を耕し、自ら食料を得よと定められた創世記の記事です。僕の畑は、いわば家庭菜園のようなものですが、農業によって生計を立てたられている方の苦労を思うと、食物を祖末には出来ません。食物は命を繋ぐようにと神が与えられた物なのです。自ら食物を作ることが出来ない人は、その代価を支払って、買うと言う道が開かれています。そのためのお金も神が労働の代価として与えて下さったものです。いずれにしても、僕たちの人生は神なしには考えられず、神無くしては生きてゆくことは出来ません。

 

 

 明日の日曜日を以って、献堂一周年を迎えます。神の前に謙り、賛美と感謝の祈りを捧げつつ、日一日を重ねてゆきたいと思います。

 

聖書の言葉

「お前は顔に汗を流してパンを得る

 土に帰るときまで。

 お前がそこから取られた土に。

 塵に過ぎないお前は塵に帰る」<創世記3章19>

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