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キリストは私たちの平和

 梅雨明けの後の方が梅雨らしい毎日の当地です。7月も残すところ2日。今月は何をして過ごしてきたのだろうと顧みても特に何と言ったことなく、平凡な日々の連続でした。そんな平凡な僕の生活の裏では、世の中は大きく動いています。その世の流れに敏感になって思いを巡らし、今の世を考えてみるのが自らの成長につながるものだと思います。

 昨晩は、北朝鮮がまたミサイルを発射したと報道されていました。我が国にとって脅威的な事件です。しかし、北朝鮮の挑発に乗ると更に恐ろしいことが起こる可能性が多分いあります。ですから我が国もアメリカも慎重な対応が求められるのではないでしょうか。

  国の防衛は、なくてはならないものです。僕の従弟の一人も海上自衛官として、国家のために働いています。防衛は大切な国家事業ですが、それに費やす費用は決して安くはありません。かつて新聞のコラムに、“アメリカには3兆円あげた。国民には税金をあげた。”と言う記事がありました。確かに我が国の防衛は、アメリカ無しには考えられません。そのために、沖縄が犠牲をはらって我が国の防衛のために不憫な思いをしても良いと言う事はないと思います。同じく新聞記事に我が国のことを、“アメリカ合衆国日本州”と記された記事がありましたが、わからないでもありません。

 

 

 平和な世界の実現は、困難極まりないと思います。世界を見渡しても、IS,パレスチナ問題、北朝鮮問題などのほか内戦。世は病んでいます。神はそのようなために人を創造されたのでしょうか。決してそのようなことはありません。神のかたちに似せて良きものとして創造されました。しかし人は、生まれながらに神と隣人とを憎む傾向にあるとハイデルベルグ信仰問答は教えています。       8月は我が国にとって重要な月です。敗戦によって天地がひっくり返るほどの価値観の逆転劇が起こった月です。そしてこの時こそ、平和を真剣に考えなければならない月です。戦没者の慰霊も大切なことではありますが、それ以上に平和を考えることが重要なのです。昭和20815日、日本は敗戦しました。現代の日本を見る時、国内には様々な問題があるにしても、僕は敗戦でよかったのではないかと思います。あの時、戦勝国となっていたらどうなっていたことでしょうか。

 

聖書の言葉

 キリストは私たちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。 それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。 それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。<エフェソの信徒への手紙21417

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主イエスを信じなさい。

 やっと梅雨が明けました。しかし、今年の梅雨はつゆらしからぬものでありました。豪雨により被災された方々には、無礼な表現かも知れませんが当地ではもう少し雨が欲しい思いでした。作物が一向に育ちません。いつもの年なら既にスイカを収穫している時期なのに、今年は未だ雌花が付かず茎の成長も遅れています。スカイ好きの僕にとっては情けない思いです。神が定められた天の法則、地の法則が人により歪められてきている現れであると思っています。この先、天候がその時々にふさわしいものである様に天を仰ぎ見ています。

 

 

 家の庭にはフシグロセンノウが花を咲かせました。かつては野にあったものですが、今では野に見ることは恐らくできないと思います。家の近くにあった野生のフシグロセンノウも姿を消してしまいました。絶滅危惧種の様に思います。幼いころ見てきた野生の草花を今では、ネット通販で買って育てている僕です。フシグロセンノウのほかには、サワギキョウ、そして実生から育てたササユリがあります。大切なものはなくした後で、その大切さ、そして有り難さががわかるものだと僕は考えています。

 7年前の今日は、亡き母の告別式の日でした。今でも前夜式から告別式までのことを昨日のことのように覚えています。親の有り難さも亡くした後でなければわからないものでしょうか。母は、キリスト教徒ではありませんでしたが、「あなたの信仰によって、あなたもあなたの家族も救われます。」と言う聖書の教えを拠り所に、今は復活の時まで神の御許で安らかであるようにと祈りを捧げる毎日です。

 

聖書の言葉

 二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」<使徒言行録1631

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口から出るもの

 今年は空梅雨の様です。いつもの様な梅雨を見込んで、気になっていたアジサイを移植しました。ところがこの日照り続き。毎日、朝晩アジサイに水を与えるのがこの頃の僕の日課になっています。うまく根付いてくれるように祈っています。ところが僕のその仕事を見ていた人がいました。その人が言うには、「いつ枯れるか、時間の問題だね。」と。

 物事には言い方と言うものがあります。この場合、「うまく根付くといいね。」と言っても良さそうなものだと心の内に思ったのです。そこまで言われたのですから、枯らすわけにはゆきません。アジサイの手入れにも力が入ります。

 

 言葉には目には見えない力があります。たった一言の言葉で、人生が変わることも珍しくはありません。その一言によって人生が開けた人もいれば、打ちのめされて立ち直れないような思いをした人もいることです。自分の身になって言葉を選び慎まなければなりません。言葉は、神を讃えるために使うべきものです。それ以上、尊い言葉はありません。決して人を陥れるような言葉を口にしてはなりません。必ずその報いがあります。

  

 

 

聖書の言葉          

 それからイエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、躓いたのをご存じですか」と言った。

 イエスはお答えになった。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」

 するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」<マタイによる福音書15章10〜20 

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私のもとに来なさい。

 七夕を過ぎました。母が入院中に食堂に七夕飾りがあり、食事の膳に短冊がのせてありました。僕は早速その短冊に、「早く家に戻ることが出来ます様に。」と記したのでした。その2週間後、母は天に召されました。思えばもう7年も前の話です。夕暮れ時、ヒグラシが鳴く時期になりました。母が天に召された日の夕暮れ時にも、ヒグラシが鳴いていた記憶があります。ヒグラシの鳴きは、一日の終わりを告げるようであると共に、僕にとっては母の生涯の終わりを告げるものでもあります。

 

 かつて七夕豪雨と言う大雨がありました。今年も九州地方は豪雨に見舞われています。被災された方も少なくはありません。救出作業も思うようには行かないようです。自然の営みに人は、なす術はありません。せめて思うことは、天気予報を見て天候が回復するようにと祈ることです。天気予報を恨めしく思っても仕方がありません。

 あと半月もすれば梅雨明けとなると思っています。そうすると今度は猛暑の時期になります。今年はどんな夏になるのか、畑の作物を見ながら少しばかり憂いています。

 

 心たけくたゆまざれ 人は変わり世は移れど主は御心なしたまわん

 備えたもう 主の道を 踏みてゆかん 一筋に <讃美歌494

 

 

 生きている限りこの先、どのような事態が待ち受けているか僕たちにはわかりません。将来を憂いて自らの命を絶った知人もいます。しかし、ことがどのような状況にあろうとも神は生きよと言われます。人生は苦です。このことはいつの時代も変わりのないことであると思います。心頭滅却すれば火もまた涼しと言う言葉があります。その時々に身に降りかかる苦を常とする強い心があれば、苦もまた人生の一齣として生きて行くことが出来るような気がします。しかし、それが出来ないのが人と言うものです。それでもなお、生きて行かなければなりません。そんな僕たちを神は、見捨てることはないのです。

 

 聖書の言葉

 すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。私は柔和で心の謙った者であるから、私のくびきを負うて、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからである。<マタイによる福音書11章28〜30>

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13年目のブドウ

 光陰矢の如し。今年も半年が過ぎました。この半年、僕は何をしてきたのだろうと思いを馳せますが、何と言ってこれはと思い当たるふしはありません。ただ一方ならぬ神の恩寵により、日々の命を賜ったことは間違いありません。苦の中にあっても、それは僕が思う苦であって、それも神の御旨であると思うのです。神はいつも、どんな状況にあっても、生きよと励まされるのです。その神の思いに反し、日々罪を重ねてきた自らを情けなくなる思いです。残された半年、どのように生きるかを考えさせられます。

 

 

 13年前、鉢植えにしたブドウが今年初めて多くの実を着けてくれました。思えば長い年月です。待つと言う事は忍耐のいることです。時に、実を着けないブドウだからいっそうの事、切り落としてしまおうかと考えたことがあります。それでも、もしかしたら来年には実を着けるかもしれないと思い世話をしてきました。やっと今年その成果が実を結んだのです。何事にも諦めてはならないと思い知らされました。

 家のブドウ棚には、今春にマスカットと、ピオーネの幼木を植えました。先に植えていたデラウェアが枯死してしまったので、その代わりに植えたものです。地植えなので、鉢植えよりも早く育ってくれると思っていますが、これもまた忍耐です。悪い枝は切り落とし、勢いの良い枝を育ててゆくことになります。これからの人生の日々、切り落とされる悪い枝とならないように自らの行いをよく吟味して生きて行きたいと思います。

 

聖書の言葉

 私はまことのブドウの木、私の父は農夫である。私につながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。あなたがたは、私が語った言葉によって既にきよくされている。

 私につながっていなさい。そうすれば、私はあなたがたとつながっていよう。枝がブドウの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたも私につながっていなければ実を結ぶことができない。

 私はブドウの木、あなたがたはその枝である。もし人が私につながっており、また私がその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。私から離れては、あなたがたは何一つできないからである。 <ヨハネによる福音書1515 

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