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父なる神

 早や10月の声を聞く時期になりました。僕の家の庭先にある柿の木の実は今が食べごろです。僕の曾祖母が嫁入りしたころからあった木と言うので、樹齢は200年ほどになると思います。木は何も語りませんが、春も秋も、夏も冬も僕の家を、そして僕たち家族を見てきた木です。僕の死後も生きながらえる木であると思います。おそらく僕の先祖が幼木を植えたものであると思います。木の生きてきた歴史の中には、明治維新もありました。戦争もありました。この木の持つ悠久の歴史の中にとても力強いものを感じます。

 

 聖書の中に出てくる木と言えば、イチジクがあります。エデンの園でアダムとエバがヘビに誘惑されて禁断の木の実を食べたため、自分たちが裸であることに気が付き、イチジクの葉で腰を覆ったと言う創世記の記事は有名な話です。ここで人類の始祖であるアダムとエバには、自我が芽生えたのです。自我とは罪の始まりです。このことにより人類はすべて罪に定められることになりました。罪とは神から離れた状態です。神に背くことです。しかし神は、この愚かな罪深い僕たちをも、神に立ち返ることを無条件で赦されます。それは、僕たちは神によって造られたものだからです。神ご自身が造られたものを、神は罪あるままにしてはおかれません。ここに神の一方ならぬ愛があります。自らの罪を悔い改め、神に立ち返る者を神はそのまま受け入れてくださるのです。神の愛はかえりみを望まれません。そして、神の前に何の功績もない僕たちを受け入れ神の子としてくださいました。この世の中にこれ以上の幸いはあるでしょうか。僕たちの信じる神は、今も活きて働かれます。この神は僕たちを子よと呼び、僕たちは父よと応えるのです。神の名を讃える声が全世界に開かれますように。

 

 

書の言葉

 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はイチジクの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。<創世記3114

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立ち返れ

 今日は秋分の日、太陽が秋分点を通る日です。また彼岸の中日でもあります。暑さ寒さも彼岸までと言いますが、このところ朝晩はめっきり涼しくなってきました。昔の人の言うことは間違いないようです。こんな時期、庭先にタンポポの花を見つけました。これから本格的な秋の深まりを日に日に目に、そして肌に感じる時期になります。僕の家の庭先の柿の木の実は、すでに食べごろになっています。秋には収穫と言う感覚があります。稲刈りも始まりました。田畑で育てたものも、野のものも収穫できる時期です。その恩恵に与ることができるもの神の恵みです。神への感謝を忘れてはならないと思います。神の恵み無くしては収穫はあり得ないのです。

 

 

 食は命の源泉です。しかし僕たちは、口から入るものだけによって生きているのではありません。イエスは言われました。「人はパンのみによって生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるのである。」口から入るものは、体を養います。それに対して、神の言葉は、心を養ってくれるのです。心が養わなければ、ただ生きているだけと言うことになってしまいます。体と心のバランスが取れて初めて健全な生き方ができるのです。しかし、愚かなことに僕たちは、心を養うことを疎かにしがちです。神から遠のき、一人歩きを始めた人類は、心の存在を置き去りにしてしまい、自己中心に生きることを良しとしてしまったのです。心が荒むのは、ここに原因があります。それでも僕たちはこれが自由に生きる生き方であると勘違いしているのです。神はこのような僕たちを忍耐して見ておられます。悔いて嘆く日が来る前に、神に立ち返らなければなりません。

 

 聖書の言葉

 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」<マタイによる福音書414

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食べられることへの感謝

 春に種を蒔いた作物が収穫できる時期になりました。思えば長い月日を丹精込めて育てたものの喜びの収穫です。果樹も収穫の時期になり、喜びはこの上ないものです。僕の家の庭の片隅に、ブルーベリーが植えてあります。ブルーベリーも少しづつながら収穫できるようになりました。ところが、僕が収穫する量よりも、鳥に食べられる量の方が多いようです。折角実った実を鳥に食べられてしまうことはシャクにさわります。

 人はせっせと田畑を耕し、種を蒔いて収穫を得るのですが、鳥は何もせず実った木の実を遠慮なく採って食べてしまうのです。鳥には木の実を食べられ、イノシシには畑を荒らされ、愕然としてしまいます。カラスにはトウモロコシをすべて食べられてしまいました。

こうなるともう諦めしかありません。

 

 

 天地創造の時、神は人にエデンの園にあるどの木からも取って食べてよいと言われました。ただし禁断の木の実は食べてはならないことが条件でした。ところが、蛇に入れ知恵された人は、禁断の木から実を採って食べたのです。これが人の堕落の始まりです。罪の始まりです。神は人に食となるものをすべて与えて下さいました。その有り難い食物を粗末にすることは僕の信条に反します。飽食の時代と言われる現代の社会の中で、その裏側には、今日一日の食べ物にも事欠く人々がいると言う現実があります。食は生きて行くための原動力です。地球規模で見れば飢餓に苦しむ人々は数知れません。その多くは何の罪もない人々なのです。僕たちにできることは何かと考える時、第一にできることは、神が与えて下さった食物を粗末にしないことです。神が人に食物を与えられたことは創世記に記されています。最初は地の青草を食物として与えて下さいました。そしてノアの洪水の後は、動物をも食物として与えられたのです。

 この神の恵みに感謝を捧げつつ、今、食に事欠く人、飢餓にある人々が何れの日にか飢餓から解放され、心豊かに平安な日々を過ごすことが出来る日の訪れることを祈ります。何が有り難いと言って食より有り難いものはないと僕は考えます。

 

聖書の言葉

 我らの日用の糧を今日も与え給え。<マタイによる福音書611

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人の賢さ、神の愚かさ

 今日は、重陽の節句です。分かりやすく言えば菊の節句です。まだ菊の花が咲くのには早い時期ですが、重陽の言葉に秋の訪れを感じます。夏と秋の交錯するこの時期、夜鳴く虫の声が増える度に、秋の深まり行くのを感じます。今日の僕は頭痛の一日でした。僕の頭痛は15歳の時から続いています。中学校3年生の時の体育の時間の鉄棒の授業で、鉄棒から転落し頭部を打ったのです。給食の時間に教室で倒れ、気が付いたら病院のベッドの上でした。それ以来、天気が変わる前になると頭痛に襲われます。近いうちに雨が降ることでしょう。僕の頭痛はいわゆる神経痛です。残念ながら気象予報士ほどの精度はありません。

 

 人は神の定められた天の法則、地の法則を解読し、僕たちの生活に役立つものを多く作り出し、また見つけ出してきました。しかし、殺戮兵器など人を殺すための物をも作り出したのです。今や、北朝鮮のミサイル発射の連発は世界の注目の的であり、抑え込むための術も効果はありません。世襲制国家ほど愚かな国はありません。多大は費用を費やしてミサイルを発射したところで、何の価値があるのか凡人の僕にはわかりません。国内の状況を知るところでは、庶民の貧困は極まりないと聞くところです。また、極一部の人が裕福な生活をているとも聞き及んでいます。これはどこの国ににもある事だろうと思います。

庶民の感覚と、為政者の感覚に余りにも温度差があることは我が国にも当てはまります。自らを賢いものと考え、人の上に立っているなどと思うのは神を冒涜することです。

 

 

 

 人の賢さは、神の愚かさにも及ぶことはありません。僕は何はなくとも、神の存在なしの生活は考えられません。それほどまでに神と僕との関係は密接なのです。そして僕の信じる神は、今も活きて働かれる神です。髪の毛一本でさえ、神の御心によらなければ頭から抜け落ちることはないのです。

 世界の情勢が不安定なこの時代を作り出しているのは、人です。何によって人は平和を求めるのでしょうか。平和は人の望むとところです。この地上で虐げられ、食にも事欠く人々が数知れずいると言う事実があります。神の平和がこれらの人々の上にありますように。

 

与えられた翼

 さあ、行こう。もう世間の風におびえる必要ないんだよ。
 神はあなたに、対抗できる翼を与えてくれたんだから。
 あなたの過去は神によって、あがなわれた。
 あなたの肉体は、神が支えている。
 決して折れない翼をつけあなたは 羽ばたいていく。
 私から離れた今でもあなたが神を残してくれた。

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慰めあり

 日中は残暑の内にあっても、朝晩は涼しくなって来ました。夜鳴く虫の声も日増しに多くなっているようです。晩夏から初秋への趣の時期になり、畑から収穫する物も徐々に増えてゆきます。子供たちは長かった夏休みも終わり、また勉学に励む時期の始まりです。

 二学期を前にして、電話相談に学校へ行きたくないと言う相談が多いそうです。理由は虐めにあうからと言うものでした。学校では虐め防止の対策を講じているようですが、その甲斐もなく虐めは絶えません。僕は虐めを苦にして、自らの命を絶ったと言うニュースを聞くたびに胸が痛みます。僕自身、虐めにあった者の一人であるからです。この国の将来を担う子供が、自らの命を絶たなければならないほどの思いをしていたと思うといたたまりません。僕は子供のころ、母親から「自分より弱いものを虐めるな。」とこんこんと言って聞かされていました。

 今の時代の虐めは、自らの欲求不満を弱いものに向けているように思われます。背景には、性格を形成する生い立ちがありますし、親の躾もあると思います。一番たちが悪いのが、羊の皮を被った狼です。複雑な社会の中で、虐める者を悪いと言い切ることは出来ないかもしれません。もちろん虐めを肯定するわけではありません。

 弱いものを虐めて何の価値があるのでしょうか。価値などある筈がありません。虐めを見つけて対処するよりも、虐めを起こさない社会を作ることです。道徳教育が遠ざかっている昨今です。それには大人が変わらなければなりません。親が変わらなければなりません。僕は復古主義者ではありませんが、温故知新と言う様に過去に学ぶべきものがあると思います。虐められた者を見て慰めと励ましを与えること。虐める者を見て、それは間違っていると断言すること。これらの勇気を神が与えて下さることを願ってやみません。

 

 

聖書の言葉

 あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」というようにならない前に、また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ。
 その日になると、家を守る者は震え、力ある人はかがみ、ひきこなす女は少ないために休み、窓からのぞく者の目はかすみ、町の門は閉ざされる。その時ひきこなす音は低くなり、人は鳥の声によって起きあがり、歌の娘たちは皆、低くされる。
 彼らはまた高いものを恐れる。恐ろしいものが道にあり、あめんどうは花咲き、いなごはその身をひきずり歩き、その欲望は衰え、人が永遠の家に行こうとするので、泣く人が、ちまたを歩きまわる。

 その後、銀のひもは切れ、金の皿は砕け、水がめは泉のかたわらで破れ、車は井戸のかたわらで砕ける。ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る。伝道者は言う、「空の空、いっさいは空である」と。<コヘレトの言葉12章1〜8節>

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