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教会の新年・降臨節

 昨日ふと恵那山を見上げると、頂上に冠雪がありました。木曽駒ケ岳も真っ白でした。いよいよ本格的な冬の訪れかと思ったのでした。季節が先走りしているように思います。天気予報を恨めしく思うこの頃の僕の心境です。季節も先走り、ホームセンターに行けば、早くも鏡餅、しめ飾りが売られています。年の瀬が近いことを思い知らされました。

 先走りと言えば、教会暦は、一足早く123日の降臨節第一主日から新年が始まります。教会は、クリスマスの4週間前の日曜日から新年となります。ですから年によって新年の始まる日が異なるのです。因みに明日の教会暦は、終末主日です。降臨節は、クリスマスへの準備の期間と言っても良いと思います。救い主、イエス・キリストの降誕を喜びの心を以て待ち望む期間です。

 イエス・キリストは、強者の権力を無力にする為に、知者の知恵を辱める為に、この世に生まれました。イエス・キリストの誕生の知らせを真っ先に知らされたのは、当時忌嫌われていた職業である羊飼いたちでした。このように、イエス・キリストは、世の中の端に隠れるようにして暮らしている人々、虐げられた人々、悩み苦しみの内にある人々に喜びをもたらすために生まれたのです。まさに、これらの人々が待ち望んでいた救世主の誕生であったのです。僕たちの信じる神は、高ぶる者を退け、謙る者に恵みを給う神です。真のクリスマス、真の救い主を知るため、教会にお出かけください。

 

 

聖書の言葉

マリアの賛歌

そこで、マリアは言った。
 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」<ルカによる福音書14655

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神の言葉

 昨日は浜松へ柿とミカンを買いに出かけてきました。果物好きの僕にとって年中行事の一つです。また1月には、イチゴ狩りに行く予定です。浜松で一緒に行くのは、僕の友人の娘です。生れた時から見てきた子です。あたかも僕の娘のようで、可愛くてたまりません。今回はあいにく風邪を引いてしまっていたため、僕単独となりました。柿とミカンを売っているのは、浜松在住中に一緒の会社に勤めていた方です。当年とって84歳になったそうです。他人ごとではなく、僕も年を重ねました。

 

僕が地元に戻ったのは、勤務していた会社が閉鎖になったことが理由でした。そのまま浜松に残って転職していたとしたら、また別の道を歩んでいたことは間違いありません。当時は、そのことで相当悩みました。自分自身の将来が見えず苦しい思いをもしました。選択肢は2つ。浜松に残るか、地元に帰るかでした。悩み、苦しんだ末、地元に戻ることを選択したのです。しかし、地元に帰還しても良いことばかりではありませんでした。なかなか就職先が決まらず、ハローワークで求人先を紹介してもらっても、年齢を理由に断られるばかりだったのです。いったい僕には何ができるのかと自問自答しました。答えは出ません。技術畑で働いてきた僕には、そして内向的な性格の僕には将来はないとさえ思ったのです。

 

 

聖書の言葉に「神のなさることは、その時にかなって美しい。」と言うものがあります。今苦しみの時にあっても、迷いの時にあっても、神は必ず報いて下さることを確信したのは随分後のことです。聖書は、今も活きて働かれる神の言葉です。これは僕が経験した事実です。神は必ず報いて下さる。この確信をもって、今悩み、苦しみの中にある方々にお勧めします。あきらめず日々、祈りを捧げてください。どんな状況にあっても神への感謝を忘れないでください。自らのあるがままの姿を神にさらけ出して下さい。必ず神は報いて下さいます。

 

聖書の言葉

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。<テサロニケの信徒への手紙第一:51618

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神の愛

 立冬を過ぎ、晩秋から初冬へと季節は移りゆきます。これから年末にかけては慌ただしい日々が続きそうです。と言っても僕自身が慌ただしいのではなく、世間の慌ただしさに乗せられてしまう僕であるのです。今年一年の締めくくりの時期です。その中で神の恵みに感謝を捧げつつ身を制して、為すべきことのみに精進したいと思います。

 

 一般の新年を迎える前に、教会はクリスマスの4週間前から新年に入ります。教会暦では、待降節あるいは降臨節と言います。クリスマスを迎える準備の期間です。一般的にはクリスマスは、1225日だけのことと思われがちですが、16日までがクリスマスの期間です。イエス・キリストが、1225日に生まれたと言うことは聖書66巻のどこにも記されていません。古くからの教会の伝統に従って、1225日をクリスマスと定め祝うのが教会です。

 

 

 イエス・キリストは、僕たち罪人の罪を贖うためにこの世に遣わされました。すべての生涯を人の為に費やし、何一つ自分の為になることは為さらなかったのです。人に仕える人であり、神の独り子でありました。その人生の行き着くところは、神の独り子でありながらも、華々しいものではなく、煌びやかなものでもなく、恥辱に満ちた十字架での死であったのです。このことによって僕たちの罪は赦されました。神がイエスをこの世に遣わされたのは、人を裁くためではなく、誰一人として滅びることなく永遠の命を得させるためであったのです。ここに神の人に対する大きな愛があります。

 しかし僕たちは、この神の愛を忘れ、イエスの十字架の死を忘れ、今もなお罪を重ねています。罪とは、神に背を向けることです。今年もクリスマスを機に、神の恵みと大いなる愛を覚えつつ、僕たちは何をなして神に報いたらよいかを考えたいと思います。

 

聖書の言葉

「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」<マタイによる福音書316

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友と呼ばれ

 雪虫が舞う時期になりました。教会暦も終末に入り年の瀬が近いことを身をもって感じるこの頃です。今月は僕の誕生月です。57歳になります。定年退職までの月日を数えられるようになりました。歳を重ねても、無駄に時間を費やしているように思える自らに少しばかり情けない思いをしています。熟年と言われる歳です。それなりの立ち居振る舞いをしなければならないと自責の念に迫られています。今までの人生のうちに、様々な人との交わりがありました。友を得、また亡くしの繰り返しであったと思います。

 固く結ばれた友情ほど人生を豊かにしてくれるものはないと思います。僕の一番長い付き合いの友人との、友としての関係は37年に及びます。この関係は、死が二人を引き裂くまで続くと思うのです。この間には、良い関係にあった時ばかりではありません。時として中違いをしたこともあります。しかし、この友人との間には堅い信頼があるので、今この時まで、友としての関係が続いているのだと言う確信があります。

 

 
 イエスは、僕たちに、「私はあなたがたを友と呼ぶ」と言われました。イエスに友と呼ばれることは嬉しいことです。自分のことを「この人は私の友です。」と紹介されれば、誰でも嬉しいはずです。その人が、自分のことを特別な関係にある者として見ていると言うことだからです。そして、友と言って下さる方がイエスであれば、尚更、嬉しいに違いありません。僕たちには、この様な感覚があるでしょうか。

 しかし、一方で、この事に、僕たちは少なからず戸惑いを覚えずにはいられません。果たして、イエス・キリストと僕たちの関係は、友情のようなものなのかと言うことです。人間の友情を考えて見ますと、それは非常に曖昧なものです。少し前まで仲良しだったのに、些細なきっかけで仲違いをしてしまうと言うことも生じます。友と言うのは、関係が希薄であるかのように感じます。イエスは、イエス自身に従う者を兄弟とも呼んでいます。今更、友と呼ぶ必要があるのかとの思いもします。僕たちは友と聞くと、気心の知れた、自分と気の合う人との慣れ親しんだ関係を思い浮かべます。そのように考えると、イエスと言う僕たちが主とあがめるべきイエスとの関係が、友情に譬えられると言うのはいかがなものかと思うのです。

 しかし、イエスが信仰者を友と呼ぶ時、一般的に思い浮かべるような友情を意味するのではありません。もっと深い、特別な関係が見つめられているのです。イエスは僕たちを友と呼ばれました。そして、天の父は僕たちを、子よと呼んで下さっています。この慈しみの中を歩む人生は、無駄に時間を費やしているのではなく、神に祝福された豊かな人生に違いありません。

 

聖書の言葉

「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない 私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。 もはや、私はあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。私はあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。」<ヨハネによる福音書15章12〜17>

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