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復活祭に寄せて

 この暖かさの中で、当地でもサクラの花が見ごろとなりました。ウメの花も満開です。

モクレン、コブシ、レンギョウなど春の花が咲き乱れているこの頃です。地に命があふれる時期になりました。41日の日曜日は、イエス・キリストの復活を記念する復活祭です。

今年になぞらえれば、イエスは330日に十字架にかけられ、3日後の41日に復活されたのです。わかりやすく言えば、死から甦られたのです。その3日間をどのようにされていたかと言うと、トマスによる福音書によると、イエスより先に死んだ者たちに福音を伝えるため、陰府に降ったと記されています。イエスの福音は、全人類に及んだのです。クリスマスに比べると復活祭は、日本人の心には印象が薄いと思います。しかし、イエスの復活がなかったら、今のキリスト教はあり得ません。キリスト教は、復活信仰です。

 

 

 

日本人は他の宗教を受け入れることが好きなのか、世の商戦に乗るのが好きなのか、最近では、ハロウィンや復活祭など、意味が分からなくても楽しければ良いと言う感覚と僕は捉えているのですが、商戦に使われています。世界的行事を逆手にとって、無意味に楽しむと言う姿を僕は冷たい視線で見つめています。この後、キリスト教では聖霊降臨祭があります。

そこまでは商戦に乗せることはないだろうと思っています。

 

聖書の言葉

さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」<マタイによる福音書28110

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キリストの受難

各地から桜の開花の便りが聞かれるようになりました。今年の冬は厳しかったので、桜の開花が遅れるのかと思いしや、例年より早いとは思いもよらないことでした。当地では今は梅の花が満開状態です。昔ながらの変わらない芳しい香りが漂い、僕は気分を良くしています。春を身に感じ、植えた草花の芽が出ているのではないかと、花畑を散策する日々です。

今年の復活祭は、41日です。今夜の月は半月です。後一週間で満月になるのかと夜空を仰いでみました。来週の金曜日がキリストの受難日になります。何一つ罪を犯さなかったキリストが、弱い者、虐げられた者に寄り添わされたキリストが、僕たちの全ての罪を背負って十字架にかけられたのです。そして僕たちが犯してきた罪、今なお犯している罪、その上、将来犯すであろう罪が全て赦されたのです。だからと言って、何をしても良いと言うことにはなりません。神は、自らの独り子を世に遣わし、十字架にかけられるほどに、人を愛されたのです。この神の慈愛に僕たちは、何をもって報いたらよいのでしょうか。神の御業は、罪の赦しだけでは終わりませんでした。キリストの十字架の死後、3日目にキリストを復活させられたのです。人にとって最後の仇である死さえもご自身の足の下に置かれたのです。

そして僕たちにも、復活と永遠の命に至る道を教えられたのです。僕たちはもはや、死を恐れることはないなのです。死に勝利したキリストが共にいて下さるからです。

 

 

聖書の言葉

昼の12時頃、全地は暗くなり、3時頃イエスは大声で「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」と叫んだ。これは「神よ、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。これを聞いた人々はイエスがエリアを呼んでいると勘違いした。イエスはもう一度叫ぶと息を引き取った。するとにわかに神殿の幕が避け、地震が起こり、岩が裂けて墓が開いたりした。百人隊長やその場にいた人々はこれを見て非常に恐れ、「本当にこの人は神の子だった」と言った。

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主を待ち望む

 日増しに春の気配を感じるようになりました。梅の花が咲き芳しい香りを放っています。

厳しかった冬を乗り越えることが出来た喜びには大きなものがあります。地は命の躍動に満ち、野辺には花が咲き、美しいこの時期を大切に心に刻んでおきたいと思います。桜の花が咲くのもそう遠くはないことです。我が家の庭に植えた河津桜も蕾が日に日に成長しています。一昨日は高知で桜の開花宣言、昨日は宮崎で開花宣言がありました。日本人の心の内には、桜に対する特別な思いがあるようです。春の訪れは人の心に喜びをもたらします。

この喜びを忘れず日々を過ごすことが出来たとしたら、なんと幸福なことかと思います。神の恵みとしての自然の営みは、時に人に厳しさをも与えます。その厳しさの中にも恵みがあるのです。ところが、厳しさに耐えず心が委縮してしまいそうになることがあります。当然な感情です。しかし、その一点に留まることなく、神が約束された未来への約束に目を向けたいと思います。そこには、神が与えられる揺るぐことのない平安があるのです。3週後の日曜日は復活祭です。キリストの復活を覚えつつ、僕たちにも約束された復活と永遠の命の内に生きることが出来る喜びを神に感謝したいと思います。

 

 

聖書の言葉

 主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は 新しく力を得、鷲のように翼をはって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。<旧約聖書イザヤ書402831

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一期一会

 今年も年明けから楽しみにしていたイチゴ狩りに浜松市まで出かけてきました。果物好きの僕にとっては、(イチゴは野菜です。)何よりの年中行事です。いつも付き合ってくれるのは、生まれた時から5歳になるまで毎日の様に見てきた友人の子供です。もうあの日から32年が経ちましたが、親交は続いています。僕の胸の内には、まだ幼かった頃の思い出が印象強く残っています。イチゴ狩りをして、寿司を食べに行くのが恒例になっています。

心通う人との交わりは、まさに至福の時です。いつも行くイチゴ園は、その名を、「いちごいちえ」と言います。一期一会とは、茶道に由来する日本ことわざです。茶会に臨む際には、その機会は二度と繰り返されることのない、一生に一度の出会いであると言うことを心得て、亭主・客ともに互いに誠意を尽くす心構えを意味するものです。茶会に限らず、広く「あなたとこうして出会っているこの時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのものです。だから、この一瞬を大切に思い、今出来る最高のおもてなしをしましょう。」という意味で用いられ、さらに「これからも何度でも会うことはあるだろうが、もしかしたら二度とは会えないかもしれないという覚悟で人には接しなさい」と戒める言葉です。

 

 

 一生に一度の出会い、そのことが事前に判っていれば、それほど価値のあるものはありません。そうであれば、相手がどうあれ自らが出来得る最善を尽くし、限られた時を過ごすことが出来ます。そして後悔を残さないことでしょう。しかし、人は一期一会などと言うことを通常は考えません。ですから自分本位に相手に接し、心を尽くすどころか、不愉快な思いをさせたり、憤らせたりすることは日常茶飯事です。人の心の隅には、人を蔑む思いがうごめいているのです。その心の驕り高ぶりは、神への背信です。罪です。人の世は罪に満ちているのです。「義人はいません。ただのひとりもいません。」と聖書は教えています。常に自らを省み、神の御前に跪いて赦しを乞う日々でありたいと思います。

 

聖書の言葉

そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。<フィリピの信徒への手紙214

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実を結ぶ

 3月となりました。今月末あたりには、桜の花が咲くはずです。僕はその時を今から待ち望んでいます。僕は桜の花が好きで、メールアドレスもポルトガル語で桜を意味するcerejeira(セレジェイラ)にしています。桜の花の思いで深いのは、神学校の卒業式に見た上野公園の桜です。これがあの有名な上野公園の桜なのかと。あれから8年が過ぎました。今思いも新たに僕は、神学校で学んだことの復習を初めています。春は、別れの時でもあり、出会いの時、新しい出発の時でもあります。また、命が野に地に満ち溢れるときです。昨年の6月、紅梅の実を見つけ家に持ち帰りました。早速、植木鉢に埋めて今に至っています。果たしてこの種の中の命が、この厳しかった冬を乗り越えてくれたかどうかが心配です。

 

 

 実は枝から離れ地に落ちて芽を出すのが通常です。しかし、枝は木につながっていなければ生きてゆくことはできません。そして木は、その幹をしっかりとした地に根を張っていなければ倒れてしまいます。イエスは、「私はブドウの木、あなた方はその枝である。」と語られました。僕たちは、イエスと言う木の枝であるのです。そして枝は実を結びます。僕たちはイエスから与えられた養分を糧に、実を結ばなければならないのです。実を結ぶためには、花を咲かせなければなりません。しかし、咲いた花がすべて実を結ぶかと言えばそうではありません。例え実を結んだとしても、成長の途中で落果してしまう実もあります。僕たちは日々、命の御言葉を糧に良い実を結ぶことに精進し、その結んだ実によって、イエスの名が褒め称えられる結果を生み出すのです。

 

聖書の言葉

 わたしはぶどうの木で、あなたがたが枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。<ヨハネによる福音書155

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