<< April 2018 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>

生涯の師

 男女の問題は、古今東西を問わず人間の持った性分なのかもしれません。最近では財務省高官のセクハラ問題、有名アイドルグループのメンバーの淫行問題など、世の話題となっています。男性にとって異性と金銭の問題は、身を持ち崩す事柄です。僕が学んだ神学校の学長は、先ず最初の講義として、この問題に触れました。お金の問題はまだ何とかなる手立てはあります。しかし、異性との問題は取り返しがつかない問題になるのです。旧約聖書の中には、このように堕落した人間の姿が赤裸々に語られています。ここまではっきりと、人間の姿を隠すことなく記した書物は他にはないと思います。学長は、このことに厳しく、自らをも戒め、車の助手席には、奥さん以外の女性は乗せないそうです。これらの問題は、意識が異性に向き、その行いが正当なのかどうかの判断が出来ない状況を作ることにあります。

また、地位や名誉、財産を手玉に取り、あたかも自分が中心になってしまう自己中心的思考によるのだと思います。自己中心は、自分を神とする神への背信行為です。

 

 

 僕が学んだ生け花教室の師匠は、「いつになっても自分の師を持ちなさい。」と教えられました。生け花の世界は、階級社会です。いつになっても自分より上の人がいるわけです。その頂点に立つのが家元です。僕たちはどうあがいても、家元より上に立つことはできません。

稽古を重ねて、更に上級の資格を取りたいと思う向上心は悪いではありません。そして自分より上級の人を敬う心を育まれなければなりません。信仰においても同様のことが言えます。牧師が偉いわけではありません。信徒が蔑まされるのでもありません。僕たちは神の前に等しく造られた人なのです。ただ役割と言うものが存在するだけなのです。それは神から与えられた賜物です。神の前には、地位も名誉も財産も何の意味も持ちません。かえってそれらは、信仰の邪魔になることがあります。僕たちは神と人との前に遜り、神を仰ぎつつ信仰の生涯を貫くのです。新約聖書には、イエスのことをラビと呼んだ記事があります。ラビとは、先生と言う意味の言葉です。僕たち信仰者の先生は、イエスであり、イエスこそ僕たちの師なのです。

 

聖書の言葉

神は高ぶる者を退け、遜る者に恵みを給う。<ヤコブの手紙46

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
穴の開いたバケツ

 陽春から初夏の趣のこの頃です。鮮やかな緑の葉に黄色の花をつけたヤマブキが、まばゆく見えます。木々は水を揚げ、芽吹き新緑の美しさを楽しませてくれています。神が造られた命あるものはすべて、水が必要です。水があることへの感謝を捧げます。まさに命の水です。出エジプト記には、モーセが水を求めるイスラエルの民に、岩から水を湧き出させた記録があります。穴の開いたバケツに水を満たすことが出来るでしょうか。このような話がありました。普通に考えたとしたら穴を修理し、修理したバケツに水を汲みます。しかし、修理した個所は弱いもので、長くは持ちません。ここで発想の転換が必要です。穴の開いたままのバケツを、プールに沈めればよいのです。そうすれば、そのままのバケツに水を満たすことが出来ます。

 

 

 穴の開いたバケツの穴は、僕たちの罪です。その罪を修理することはできません。水は神の恵みです。穴の開いたままのバケツに水を汲めば神の恵みは、見る見るうちに穴から抜け落ちてしまいます。ところが、穴の開いたままのバケツをプールに沈めたとすれば、本体に水が満ちるばかりか、穴からも水が入ってくるのです。僕たちは、溢れんばかりの神の恵みの内を歩んでいます。その恵みに感謝しつつ甘んじて受けるべきです。神の恵みは、罪をも覆い赦しへと変えて下さるのです。罪に死んだ僕たちをも生きる者として下さるのです。明日からの新しい週、日に日に神の恵みを受け賛美と祈りとを以て過ごしたいと思います。

 

聖書の言葉

憐れみ豊かな神は、私たちをこの上なく愛して下さり、その愛によって、罪の為に死んでいた私たちをキリストと共に生かし、あなた方の救われたのは、恵みによるのです。<エフェソの信徒への手紙245

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
主の祈り

 今年は早くから暖かくなった影響が、多分に生態系に影響を与えていると思います。早くもワラビが出始め、既に葉が広がってしまっているものが殆どです。毎年ワラビ取りに来られる方に、今年はワラビの出るのが早いので、いつもの年より早く来られるように伝えました。今週末は雨模様です。いつものように畑仕事を始めた僕にとっては、恵みの雨です。今年は、何を作ろうかと思いつつ、ホームセンターの野菜の苗を見ています。必ず毎年作付けするのがスイカです。昨年は不作でした。今年は、植え付けのタイミングを逃さないようにと、捕らぬ狸の皮算用をしています。

 

 

 神は、僕たちに日ごとの糧を与えてくださいます。毎日食事に事欠かないことが値前の様に思っていますが、これは、この上ない神の恵みです。世界を見渡せば、飢餓に喘ぐ人々が多くいるのです。明日の命をつなぐことが出来るかどうかの瀬戸際にある人々がいるのです。豊かに見えるこの国の中にも、そのような現実があるのです。僕たちは、日ごとの糧と命を与えて下さる神に感謝を捧げなければなりません。日ごとの糧は、食物だけのことではありません。食物によってお腹を満たすように、神の言葉によって心をも満たさなければなりません。お腹が満たされても、心が荒んでいたら決して健全とは言えません。ですから僕たちは、「天にまします、われらの父よ。」と祈るのです。

 

聖書の言葉

あなたは祈る時、自分の部屋に入り、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉数が多ければ、聞きいれられるものと思っている。だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存知なのである。だから、あなたがたはこう祈りなさい。

天にいますわれらの父よ、 御名があがめられますように。 御国がきますように。 みこころが天に行われるとおり、 地にも行われますように。 わたしたちの日ごとの食物を、 きょうもお与えください。 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、 わたしたちの負債をもおゆるしください。 わたしたちを試みに会わせないで、 悪しき者からお救いください。<マタイによる福音書6613

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
欲の果て

 今日は、昨日までの暖かさはどこに行ってしまったのだろうと思う肌寒い一日でした。今までが異常に暖かすぎたのかもしれません。神が定められた天の法則に、人が関与し異常をきたしていると思います。新しい年度を迎えても、世は乱れている現実があります。これは、人類の歴史であるかもしれません。いったい何が正しくて、何が悪なのかの判断があいまいになって、感覚が鈍って来ているのです。それは、この国を将来へと導く政治家の姿にもよく表れています。為政者たちにこの国を任せてよいのだろうかと思いもします。真実は一つ、その真実を隠蔽することが、はばかりなく行われている現実があります。僕たちの寄り頼む、僕たちが選んだ為政者です。国民の信頼に応えるべきです。

 

 

 

 僕たちは豊かさを求めます。その豊かさとは、大抵は物資的、金銭的に満たされることです。しかし、心が荒んでいたら本当の豊かさには至りません。僕たちの求める豊かさは、方向を変えてみると、欲望と言う言葉で表されます。僕は欲望がすべて悪いものだとは思いません。しかし、欲望は人を破滅に向かわせる傾向にあります。欲望を果たそうと思うが故に大切なものを失うことさえあります。人に欲望を捨てよと言うのは、到底無理な話です。僕にも欲望はあります。心の内に潜む欲望をいかに実現し、使うかが問われる時代であると思います。

 

聖書の言葉

欲がはらんで、罪を生み、罪が熟して死を招く。<ヤコブの手紙115

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
| 1/1PAGES |