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人生の目的

 今年も早や、半年が過ぎようとしています。今はアジサイの花が目を楽しませてくれています。時は刻々と刻まれ、季節は移ろい時の流れとは何と早いものかと身をもって感じています。日が昇り、日が沈むと言う日々の暮らしの中で、この半年僕は何を残してきたのだろうと過ぎた日々に思いを馳せます。思い起こしても心に刻まれた出来事は思い当たりません。決して何らかの功績を残したとか、栄誉を受けたとかそのようなことを僕は求めません。一言でいえば、平凡な日々の連続であったように思います。ぼぅ〜として生きてきたとすれば、ちこちゃんに叱られます。「ぼぅ〜と生きてんじゃねぇよ。!」と。人生に目的を持つことは、生き甲斐となります。喜んで生きることへとつながります。神に造られた僕たちの生活はどうあるべきか。これを考えて生きてゆくことが、日々の暮らしへの達成感、喜びへと変わって行くのだと思います。これは決して難しいことではないと僕は結論付けました。それは、神に喜ばれる生活をすることです。神の教えに従って生きることを喜ぶことです。聖書は、いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさいと教えています。聖書の教え、つまり神の言葉は、禁欲主義ではありません。福音です。福音と言う喜ばしいことに身を委ね、今日は駄目だったとしても、明日の日の光に希望をもって生きること、この積み重ねが人生に確たる足跡を残すことになると思うのです。僕たちには、神から与えられた人生の目的があります。その目的に向かって明日の日の光を待つのです。明日からの新しい週を、この思いを心に刻み生きて行きたいと思います。

 

 

ウエストミンスター大教理問答

問1 人間のおもな、最高の目的は、何であるか。
答  人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである。

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共に歩まれるイエス

日中は夏のような陽気、朝夕は過ごしやすいこの頃です。昨日には春ゼミの声を聞きました。

かつては、この時期に鳴くセミなどいなかったことを思うと、温暖化を身をもって感じます。

この頃のニュースも、相変わらず殺人事件が多いことに憂いを感じています。特に印象深いのは、日大アメフト部の事件です。僕には、組織ぐるみの仕込まれた犯行としか思えません。

その犠牲となったのが、違反をしたと言われる青年です。将来ある青年が、大人のしがらみの中に巻き込まれ、マスコミの注目の的となってしまいました。おそらく彼の言っていることは真実であると思います。監督、コーチはうさんくさいのです。自分の地位、名誉を守るために罪もない青年を陥れようとしている。これが僕の見解です。監督の経歴や言動にもその裏側に事件性が見え隠れします。日大のトップ2の常務理事、理事長に気に入られ常務理事の職を手にした。そして、人事権を握りしめているとか。職員は自分の身可愛さに何も言うことが出来ないとのこと。このような事態が明るみに出た今、日大の格が下がることは間違いないことでしょう。この問題はまだ解決していません。国もスポーツ庁が調査に動き始めました。人は一度、権力を握るとあたかも自らが偉いものの様な錯覚に陥るものです。そこに人間性が現れます。

 

 

裁きは僕たちがすることではありません。地上の裁きは人が行いますが、やがて訪れる最後の審判において、神自身が裁かれるのです。キリストの救いに与った者は、全ての罪が許されています。神の前に立ち審判を受ける時、一人一人の罪状書きが読み上げられます。しかし、その罪はキリストが擁護して下さるのです。今も生きて働かれる神は、僕たちの行い一つ一つを吟味されます。しかし、キリストが共に歩んでくださる人生に恐れはありません。

明日から始まる新しい週も、キリストが共に歩んでくださり神の御心を示してくださいます。その御心に謙虚な心を以て従う日々でありたいと思います。来る新しい週に平安がありますように。

 

聖書の言葉

主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の交わりがあなた方一同と共ににあるように。<コリントの信徒への手紙第二13章13>

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喜び・祈り・感謝

 長い間、ライラックの木だと思って育ててきた木が花を咲かせたのは、7年ほど前のことです。咲いた花に僕は驚愕の一言でした。なんとライラックだと思っていた木が、ナンジャモンジャだったのです。ナンジャモンジャとは、柿の仲間の木でヒトツバタゴと言うのが一般的です。純白の糸のような花を咲かせます。まるで常緑樹の枝に雪が積もっているような光景です。種は種に従って命を継続します。これは天地創造の時以来、変わることのない事実です。

 

 

先日は、年に一度の健康診断を受けてきました。結果が出るのは2週間ほど先のことになると思います。僕たちの体は、神から賜ったものです。自分のものだと勘違いしがちですが、実はそうではありません。ですから神から賜ったこの体を大切にし、不具合のところがあれば医師の診察を受け、健康を維持なければなりません。聖書は、いつも感謝しなさい。絶えず祈りなさいと教えています。不満を抱えながらの生活は、そのことによって人につらく当たることもあります。これは精神的に不健康な状況です。医学的に笑うことは、健康に付与することが立証されています。人の表情の中で、笑顔ほど美しいものはありません。明日からの新しい週、思いも新たに誰に対しても笑顔を以て接したいものです。

 

聖書の言葉

いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。<テサロニケの信徒への手紙第一51618

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再臨を待つ

 20年ほど前に植えたセイヨウトチノキが、今年たくさんの花を着け、目を楽しませてくれています。僕がセイヨウトチノキに魅せられたのは、イギリス、フランスを旅行した時のことでした。街路樹として植えられており、植物好きの僕はその樹勢と花の色、形にセイヨウトチノキの虜になりました。帰国して何年かしてから、運よく植木店でセイヨウトチノキの幼木を見つけ手に入れたのです。花が咲くまで、今年は咲くだろうかと何年待ったことかわかりません。待つことは忍耐が必要です。忍耐して待てば、事は必ず成し遂げられるのです。

 

 

 

 僕たち信仰者、そして教会が待ち望んでいることがあります。それはイエス・キリストが、

再びこの世に来て下さることです。これはイエス・キリストが約束されたことだからです。これをキリストの再臨と言います。それはいつになるかわかりません。ただ神の計画によって成し遂げられることです。僕がこの世にあるうちに再臨はないかもしれません。しかし、今を生きる僕たちは、キリストの再臨に一番近い時間を生きているのです。天地創造の時から、今この時に至るまで、この世を支配されている神は、今も生きて僕たちに働きかけられます。神から賜る日々の恵みと平安の内を感謝の念を以て歩みつつ、心静かに再臨の日を待ち望みたいと思います。

 

聖書の言葉

私は、あなた方をみなしご子にはしておかない。あなた方のところに戻ってくる。<ヨハネによる福音書1418

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子供は宝

 今日は子供の日。僕が幼かった頃は、こどもの日には地区ぐるみでバス遠足が恒例でした。

この年になっては、もうどこへ行ったのか記憶は遠のいていますが、名古屋空港や蒲郡へ潮干狩りに行った覚えがあります。その日の為に、子供ながらに朝早く起きる練習をしていました。もう50年も前の話です。今日の天候は晴れ、バス遠足と言ったものが現在も存在するかどうか僕にはわかりませんが、多くの親子連れが楽しむ一日であると思います。今も昔も、子供は国の宝です。将来の我が国を担う子供たちが伸び伸びと育まれる社会を作るのが今を生きる僕たち大人の責任です。

 

 

 

 しかし、世界を見渡せば発展途上にある国の子供たちは十分な教育を受けることもできず、如何に貧困と飢餓の中にある子供たちの多いことでしょうか。内戦によって苦しみ喘ぐ子供たちもいます。このようは国には将来はありません。我が国においても問題はあります。

幼児虐待がはびこっているのです。親になってはいけない大人が親となってしまったのです。結婚をしたならば、なりよりも先ず親になることを考えなければなりません。親の深い愛情に育まれて、子供は成長しなければならないのです。僕たち信仰者は、神の前に何の功績もないのに、神はそのままの僕たちを受け入れ神の子としてくださいました。これより深い愛はないと思います。僕たちは神の子として、父なる神を証することが神の子とされた僕たちに与えられた使命であると思います。明日からの新しく始まる週に、このことを覚えつつ生きてゆきたいと思います。

 

聖書の言葉

父たる者よ。子供を怒らせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい。<エフェソの信徒への手紙56

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