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恵みを給う日々

 光陰矢の如し、早や今年も半年が過ぎました。関東甲信越では梅雨明け。いよいよ夏本番の訪れです。日没が随分遅くなったので、夕方、帰宅後には縁側のベンチに腰を掛けて、何と言って考えることもなく、庭先に咲いた花を心ゆくまで見るのがこの頃の日課になっている僕です。今日も無事に終わり家路に着くことが出来たことへの感謝を捧げています。これが当たり前と言えばそれまでの話ですが、僕は深い神の恵みと守りがあることを感じています。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさいと聖書は教えています。ごく普通に考えれば、いつも喜んでいられるはずはあり得ません。この思いは、自らの表面的なことだけを見ているからです。仕事に追われ、この暑い中で一日働いて、その上疲れて、このようなことの繰り返しの中で、どうして喜べるのだと思うのが当然のことです。しかし、その背面にある神の御業を見る時、これらの思いは消え失せ、喜びへと変わるのです。朝日を昇らせ、新しい朝が始まります。そして一日の糧を与えられ、それによって今日の命をつなぐことが出来ます。夜は憩いの時です。神は、暗黒の夜空に星を散りばめ、僕たちに明日への希望を与えてくださいます。そして暖かな布団に身を横たえ休む時間を与えてくださるのです。この恵みに与らない人はありません。神に背を向けている人生においては、このような思いは湧き出ずることはないと思います。僕たちの人生は、常に喜びが伴うのです。喜ぶことを忘れているのです。今日も静かな夜を迎えました。今日も静寂な夜の中で、神への感謝を捧げたいと思います。明日から7月、きりがよく日曜日から始まります。明日から始まる新しい週に神の御業を受け止めながら、日々を重ねて行きたと思います。

 

 

聖書の言葉

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。<テサロニケの信徒への手紙第一51618

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悠久の時

 この先1週間は、どうも梅雨らしい天候になる予報でした。僕の家の裏にこの時期の花、ササユリが咲き、芳しい香りを放っています。僕が子供のころには、山に行けばどこにでも見ることが出来たササユリです。しかし近年では、数が減少し希少種となってしまったようです。もしかしたら絶滅危惧種かも知れません。僕はササユリの種を採り、プランターに蒔いて育てていますが、花をつけるのはまだまだ先のこと、芽が出てから花が咲くまでに、おおよそ10年はかかると聞いています。野生の植物には美しいものが少な時からずありますが、その中でもササユリは、その最たるものだと思っています。因みにササユリの語源は、その葉が、ササの葉に似ているからです。

 

 

 

 今年も春夏秋冬の営みの中で、梅雨の時期をむかえました。これは、神が天地創造をされた時から変わりなく続いてきたものです。悠久の時の流れに思いを馳せます。その時の流れの中で、僕たちの地上での人生は本の一齣でしかありません。しかし僕たちには、神が約束された死からの復活と永遠の命が約束されているのです。ですから僕たちは、何があっても天を見上げ落胆しません。この世の憂い悩み、そして苦しみは、そのあとに約束されたものに比べれば、些細なことだからです。神から与えられた今この時、そして明日を望み流れ生きるのです。時間とは、漢字では、時の間と書きます。その時とは、刻々と刻まれる時計の時ではなく、天地創造の時から始まる時であり、神の国の完成の時までです。その悠久の時の間に僕たちの人生はあるのです。また始まる新しい週に感謝ををもって生きてゆきたいと思います。

 

聖書の言葉

あなたがたのうち、だれが思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の花でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。<マタイによる福音書62730節>

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愛に生きる

 今年もアマリリスが咲き、目を楽しませてくれています。僕の育てているアマリリスは、僕が浜松市に住んでいたころ、勤務していた会社の社宅に植えてあったものを、持ち帰ったものです。おそらく50年は経っていると思います。その間、世代交代を繰り返し今まで命を温存していると思うと、その生命力の強さには驚くべきものがあります。今の時代、様々な色彩の種類のアマリリスがあります。このアマリリスが植えられたころには、このタイプの花が流行っていたのかと永遠の昔に思いを馳せます。植物の生命力には驚くものがあると思う反面、今の時代、環境の変化からか、乱開発からか絶滅して行く植物も少なからずあります。ササユリ、オミナエシ、キキョウ、マツムシソウなど僕が幼かった頃、野辺でいくらでも見ることが出来た植物が今は滅多に見ることが出来ません。神が創造されたものが、人の手によって絶滅しているのです。命を保つことはなんと難しいことでしょうか。野の物は、地の法則によって命を温存します。しかし、園芸種は、人が手を施してやらないと枯死してしまいます。いかに愛着をもって育てるかが問われることになります。

 

 

 昨今、5歳の女の子が親の虐待により命を落としました。胸が痛む思いです。照明もない部屋に閉じ込められ、朝早くからひらがなを書く練習をしていたとか。その女の子が書き残したものには、「ゆるしてください。ごめんなさい。」と記されていたそうです。この両親は、親になる資格のない者だったと言うほかありません。子は、親の愛情を受け育まなければなりません。おそらくこの両親の生い立ちは良くはなかったのだと察することが出来ます。聖書は、「父たるものよ。子につらく当たってはならない。心がいじけるからである。」と教えています。天地を想像され、また人を造られた神は、全ての者に愛を注がれています。その愛を受け取ったものが、信仰へと導かれます。神が給う愛と慈しみの内を歩む者は、隣人に対しても、そのようにすることが出来ます。同じ人としてこの世に生を受けた者同士、互いに愛と尊厳とを以て生きて行きたいと思います。

 

聖書の言葉

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうち誰が、思い悩んだからと言って、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それは皆、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものが皆あなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは皆加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」<マタイによる福音書62434

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父の思い

 早くも6月。梅雨入りも近い事と思います。僕が幼いころの梅雨の時期は、風情があったように思います。毎日の様にしとしとと降る雨、そしてアジサイの花が咲き、その葉にはカタツムリが這っていた様子が思い浮かばれます。もう50年も前の話です。気候は確かに変化してきています。思ってみれば、カタツムリの姿を最後に見たのはいつの日か記憶にありません。自然は環境に左右されます。環境を変えるのは人の業です。変わってしまった環境を元に戻すことはできないと言っても間違いではないと思います。ただ、これ以上に環境が変わらないように自然の営みを保つことが、将来を担う者に対する僕たちの責任であると思います。様々なものの進歩によって、快適な暮らしができるようになりました。便利なことがよいかと言えば、それは間違いではありません。しかし、その裏側で起こっていることを知らなければならないのです。電気は便利なものです。今の生活に無くてはならなくなっています。その電気を発電するために何が使われているのでしょうか。水力、火力、原子力、そして風力、地熱があります。これ以上、自然環境を変えないためには、自然からエネルギーを得ることが一番の得策です。

 

 

神はこの世を見て、忍耐されていると思います。森羅万象は神が創造されたものです。そして僕たち人も神によって創造され、イエス・キリストを信じる信仰により、神の子とされたのです。そして神を父と呼ぶことが許されました。父が創造されたものを、子が破壊しているのです。人の世の話だとしたら、父は子に向かい激怒することであると思います。旧約聖書の時代、神は人の罪の故に何度となく人を打たれました。罪とは神の存在を忘れ、人が独り歩きをする状態です。また、神に背を向け自らを神とすることです。明日から始まる新しい週に、神の思いを今一度思い起こし、今僕たちが出来ることは何かを考えてゆきたいと思います。

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