<< September 2018 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>

人間関係

 キンモクセイの花の香りが漂う時期になりました。9月も最終週となり、徐々に深まりゆく秋を身を以て感じている僕です。日々、神から給う恵みの内を平安に歩むことが出来るようにと願いつつも、人との関係の中では、トラブルを避けては通れない現実があります。今週は僕にとって、辛い週となりました。人間関係ほど、厄介で難しいものはありません。腹の中では怒っても、笑顔でいられるような処世術を僕は持ち得ていません。僕の祖母は、相手の出様で、鬼にも蛇にもと言っていました。これが人の自然な感情なのかもしれません。

 

最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。

「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求よ。

主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」聖書はこのように教えています。人にはそれぞれ持った我と言うものがあります。また、自分を正当化しようとする心があります。これがトラブルの原因となります。あることを指摘されて「そうだったのか。」などと物分かりの良い人などほんの一握りです。しかし、僕たちはこの現実の中を歩んでゆかなければなりません。僕は人に打ち勝とうなどとは思いませんが、道理の通らないことを赦すことはできません。このことが相手の頭に火を着けることになるのです。一度着いた火を治めることは並大抵のことではありません。ことは物別れに終わりましたが、後味の悪いものです。平和の神、慰めの神が臨まれることを祈って、この週を終わりたと思います。

 

 

聖書の言葉

主があなたを祝福し、守られますように。

主が御顔をあなたに照らし、恵まれますように。

主が御顔をあなたに向け、平安を賜りますように。

<民数記62426

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
謙虚に生きたい

 稲穂が頭を垂れ、稲刈りが始まりました。本格的な秋の訪れの様です。スーパーマーケットに行けば秋の果物が並べられています。果物好きの僕には、至福の時期です。また、近くの山にアケビの実を見つけました。熟すのを楽しみに待っています。秋は様々なものに例えられます。食欲の秋、収穫の秋、読書の秋、・・・。しかし、僕の心のは秋に寂しいもをも感じます。躍動していた生き物たちが、だんだんと命を散らしてゆく時期でもあるからです。しかしこれも、神が定められた天の法則に従ったものです。この法則の中で与えられるものを感謝の念をもって受け入れなければなりません。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさいと聖書は教えています。そんなことが出来るわけがないと思うのですが、生きると言うことについて考えてみるとき、日々の命を与えられ、日々の食糧を与えられ、憩いの夜に暖かな布団に身を休めることが出来るのも神の恵みです。決して自分が勝ち取ったものではありません。神は僕たちに必要なものを必要な時に必ず与えてくださいます。それは自分が期待していたものとは異なった形で与えられることもあります。だからと言って神が僕たちを見捨てたと言うことにはなりません。神は、独り子であるイエスさえも僕たちの幸福のためにこの世に遣わされ、僕たちの罪の代価として、十字架に掛けられました。このことによって僕たちの罪は赦されたのです。これほどまでに神は僕たちを愛しておられるのです。この神の愛に応える生き方が出来るように日々祈りたいと思います。天の父、悪しきもの、罪を僕たちから遠ざけてください。このように祈りながらも、罪を重ねる日々である僕たちなのです。このような弱さをもって生きる時、僕たちは謙虚になることが出来ます。

 

 

 

聖書の言葉

私たちが既にイエスから聞いていて、あなた方に伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないと言うことです。<ヨハネの手紙第一 15

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
私は忘れない

 ヒガンバナの花が咲き始めました。日長も短くなり、あれほど賑わっていたセミの声も遠のき、代わって夜鳴く虫の声が賑やかになっています。秋の訪れは確かです。思い返せば今年は全国的に災害に見舞われた年であると思います。残されている3か月にも何が起こるかわかりません。かつて、天災は忘れた頃にやって来ると言う言葉がありました。今年は忘れて頃ではなく、矢継ぎ早にやってきています。先般、ドイツに住む友人に電話と入れました。そのところ、ドイツでも同じだそうです。異常気象は世界的に起こっているようです。

神が6日間をかけて創造された天と地に異常が起こっていると言う現実は、楽観視できることではありません。神は森羅万象を見られて、はなはだ良しとされたのです。今からでも遅くはありません。神が良しとされ、人を造られ、そこに住むことを許された神の思いをくみ取り、神に立ち返る時です。本来であれば神の御懐にあるべき人が、罪を犯し神を忘れ一人歩きを始めたのです。全ての物を神から与えられていることさえも忘れてしまいました。

罪に罪を重ね、日々罪過を大きくしています。そのような人に対して、それでも神は、「私が、あなたを忘れることは決してない。」と言われるのです。神の愛の大きさ、寛容さには言い尽くせないものがあります。神の愛に甘んじ、日々、神によって生かされていることを思うとき、僕たちの進む道が見えてくるのです。

 

 

 

聖書の言葉

シオンは言う。主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた、と。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける。<旧約聖書 イザヤ書 491416

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
告別

 4日の早朝、親しかった牧師のひとりが天に召されました。歳は僕と同じです。逝くにはあまりにも早すぎます。召天の知らせが教会員からあり、僕は言葉がありませんでした。この牧師は、僕が神学生の時の指導牧師でありました。指導の甲斐あって、修業年限を一年繰り上げて全ての単位を取ることが出来、神学校では繰り上げ卒業をすることが出来たのでした。おおよそ20年間のお付き合いの中、様々な思い出が走馬灯のように僕の脳裏を巡り巡ります。人の死とはこんなに儚いものなのかと、胸を打たれる思いです。中国の諺に“紅顔の美少年、夕には骨となる”と言う言葉があります。仏教でよく使われる諺です。今は既に、父なる神の懐の内にあり、天において平安が与えられていることを信じます。僕はこの日を心に刻みます。

 

 

 しかし、聖書の教えを説く牧師である僕が、いつまでも悲しんでいるわけには行きません。

僕たちには、復活と永遠の命が約束されているのです。新約聖書のヨハネの黙示録には、「天使がラッパを吹き鳴らすとき、死者は甦ります。」と記されています。ラッパのなるとき死者は甦る。これは、あの有名なヘンデルの曲、ハレルヤコーラスで知られているメサイアの中にも歌われています。キリスト教は復活信仰です。キリストが十字架に掛けられて死んだことは、キリスト教徒ではなくても多くの人が知るところであると思います。しかし、死後三日目に甦ったと言うことを知る人は少ないのではないでしょうか。キリストの甦りを祝うのが復活祭です。毎年、春分の日の後の最初の満月の直後の日曜日が復活祭です。キリストの復活がなかったら、キリスト教は今の世に存在しないかもしれません。そして、イエス・キリストと言う人がいて、多くの人を救ったと歴史に名を刻むに限られたことでしょう。僕たちには神が約束された未来への約束、復活と永遠の命が約束されていることを心に刻み、明日に立ち向かって生きてゆきたいと思います。

 

聖書の言葉

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、私は場所を備えに行くのです。私が行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたを私のもとに迎えます。私のいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」<ヨハネによる福音書14:1〜3>

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
おじさんと呼ばれ

 今日から9月。カレンダーを1枚めくり、残りも少なくなってきたものだと時の経つことの早さを改めて思い知らされました。何もしなくても時は刻々と刻まれてゆきます。同じ時を過ごすのならば、価値ある時を過ごしたいと思いながらも、何に価値があるかに決め手を得ないまま過ごしてしまうのが現実です。年相応の教養と風格を備えたいと思います。いつまでも若いようなつもりでいてはいけないとつくづく思います。樹木が年ごとに年輪を刻んでゆくように、人にもそれ相応の生きてきた人生の重みがあると思うのです。先般、病院を訪れた時、青年から「おじさん。」と声を掛けられました。“おじさん”の一言にいささかの違和感はありましたが、確かに“おじさん”と呼ばれる歳です。僕も“おじさん”かと思い知らされました。おじさんと呼ばれる歳となった僕は、聖書の教えに従って若者の手本となるような老後を送りたいと思います。信用を落とすことは、すぐにでも出来ます。しかし、信用を築くことは、きわめて厳しい道のりです。最後に目指すのは天の御国です。天には、僕たちの住処を父なる神が用意していてくださいます。その住処に、はばかることなく入ることが出来るのです。僕たちの人生は、神が導いてくださいます。その神が示された道を踏み外すことなく歩むこと。これが豊かな人生への確かな道であり、そのことによって、その生きざまを見た人々が、神を讃えること。これこそ僕の歩む道であり、ためらうことなく“おじさん”と呼ばれることにつながると思います。

 

 

聖書の言葉

そして、私たちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。<テサロニケの信徒への手紙第一 411

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
| 1/1PAGES |