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救い主を待ち望む

 木枯らしの風に木の葉も舞い落ち、まるで枯れ木のようになってしまった木々の山並みを眺めながら、枯れ木も山の賑わいと言う言葉を思い起こしました。しかし、落ちた葉の部分には、来春に芽吹く用意が出来ています。生命の不思議、生きていることの不思議に思いを馳せます。ひと月後にはクリスマスを迎えます。明日の日曜日が教会暦での最後の週になり、今年は122日から教会の新年である降臨節に入ります。イエス・キリストの降誕を迎えるための準備の期間です。世間はクリスマス商戦に巻き込まれ、猫も杓子もクリスマス一色に染まる時期の始まりです。教会はイエス・キリストが人類の救済のために、天の父がこの世に遣わされたことを深く心に刻み、救い主としてのイエス・キリストの降誕を祝うのです。僕のクリスマスの思い出は、僕がまだキリストを知らない幼少の頃、朝目覚めたら枕元に、お菓子の入った赤い色の紙でできた長靴が置いてありました。僕の両親は、キリスト者ではありませんが、クリスマスを知ってか子供への愛情を感じます。その頃の僕は、クリスマスが何なのか等と言うことは知らなかったと思います。ただ、お菓子を貰えたことで喜びに浸っていたと思うのです。もう50年以上も前の話です。

 

 

 晩秋と初冬の間の中で、ホームセンターには冬を彩る様々な草花の苗が売られています。冬来たりなば春遠からじと言います。今年の冬は、エルニーニョ現象の影響を受けて暖冬になるとの長期予報が出ています。しかしながら、冬の寒さが身に感じるほど暖かいことはありません。僕が一番苦手な冬の到来ですが、これも天地創造の時から定められたものです。喜びの復活祭の時期には、本格的な春になっています。その時まで、忍耐と感謝を以て過ごしてゆきたいと思います。

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救いあり

 庭先のビワの花が芳しい香りを放っています。地味な花ですが、香りは何か懐かし昔を思い出すような気がしています。今開花しても収穫できるのは来年の6月ごろです。気が遠くなるような日々を重ね、日一日と成長していることを思うと生きていることの不思議に行き着きます。多くの生き物たちが眠りにつくこの冬に、たくましく生きている生き物がいるのです。自然の摂理は測りがたいものがあります。それは神が創造されたものだからです。

神の恵みは、草や木にまで及びます。自然のものが神の定めた摂理に沿って神の栄光を顕しているのに、どうして人だけが罪に染まってしまったのでしょうか。そのような人をも神は見捨てることなく、救いをもたらせて下さいました。それがクリスマスの出来事です。神は独り子を世に遣わすほどに世を愛されました。それは、御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命を得るためであると聖書は教えています。商戦に乗せられたお祭り騒ぎのクリスマスではなく、まことのクリスマスの意味を深く胸に刻みたいと思います。

 

 

聖書の言葉

神は、実に、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は神の独り子の御名を信じなかったので、すでに裁かれている。<ヨハネによる福音書1618

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国から逃れる

 サザンカの花が美しく咲く時期になりました。寂しくなりつつなって行く晩秋に彩を添えています。週明けに僕は誕生日を迎えます。僕の生まれた年にもこのようにサザンカが咲いていたのかと遠い昔に思いを馳せます。今、僕が気になることは、グアテマラからアメリカを目指して徒歩で向かっている6000人にも及ぶ人々のことです。その中には、幼子を連れている方もいました。アメリカ側は、受け入れを拒否しています。現実的な話、夢を抱いてアメリカに向かっても、アメリカは彼らの思いに応えてくれることはないだろうと言うことです。それは日本人も言えることだと思います。400年前、イギリスの清教徒の人々は、宗教的弾圧を受け、国から逃れるためオランダに向かい、更にメイフラワー号に乗ってアメリカに着きました。冬季であったことと飢えから、その半分の人々が命を落としたと言われています。アメリカに着いた時、先住民に助けられ、その年の秋には、大きな収穫を得ることが出来ました。これを記念するのが収穫感謝祭です。しかしその後、後から来た者が勢力を持ち、先住民を追いやり居住区を設け先住民を追いやる始末になります。世界に大きな影響を与えるアメリカにもこのような過去があるのです。国の事情はそれぞれです。しかし、自分が生まれた国を捨てて新天地を求めて逃れ中ればならないと言うことは、何とも言い難いものがあります。この先、彼らの行く手に神の加護があることを願っています。

 

 

聖書の言葉

アロンとその子らに告げて言え。あなたがたはイスラエル人をこのように祝福して言いなさい。『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。<民数記62327

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デジタル社会の中で

 冬の星座、オリオンが東の空に昇ってくる時刻が早くなってきました。雪虫の舞う時期にもなりました。晩秋から初冬への趣を感じる時期です。昨日、教会員の方から、チャーチオルガンを頂きました。年代ものですが、ほとんど使用していないとのことで、まだ艶が残っています。僕の教会の礼拝堂には、電子オルガンを置いてありますが、礼拝堂を作るときにチャーチオルガンを購入することを考えました。ところが余りにも高価なことから断念したのです。早速、頂いたオルガンを弾いてみましたが、電子オルガンとは全く違います。電子オルガンでは難なく引けた曲も、頂いたオルガンではそうはゆかないのです。鍵盤の感覚が全く違います。ペダルの踏み方で音色が変わります。このオルガンを自在に弾けるようになるまでには相当の練習が必用になりそうです。教会の奏楽者の苦労がよくわかりました。

 

 

 アナログからデジタルに変わっている昨今、僕はアナログの持つ良さに心を惹かれます。因みに、僕の書斎の時計も昔ながらのネジ巻き式の時計です。振り子の調整で正時を合わせるのですが、これがまた苦労ものです。現在、その時計は5分進んでいます。もちろんデジタル時計も置いてあります。これから先の時代、便利さと正確さを求めて、更にデジタル化が進むと思います。聖書にもCDがある時代です。便利さを求めてゆく中で、本来あったものを忘れてしまう結末に行き着く様な気がします。温故知新と言う言葉があります。デジタル化を僕は喜んで受け入れています。しかし、アナログの良さをも感じます。様々な職業の中で、職人と呼ばれる方々の実に着いた技術がデジタル化できないように、神の造られたものはデジタル化することはできません。それは自然を見ればよく分かります。人知の及ばないものがあるのです。

 

聖書の言葉

彼らは、御座の前、四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌を歌った。<ヨハネの黙示録143

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