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明日を生きる力

 先週は名古屋から梅の開花の知らせがありました。今週は当地でも梅がちらほらと咲き始めています。目に見える春の形に気分を良くしているこの頃の僕です。時は巡り待ちに待った春の訪れです。忍耐して極寒の冬を耐え忍び、日の光がさんさんと降り注ぐ春を待つことは切なる希望です。本格的な春は、僕の経験的には東大寺のお水取りの頃の様です。時は必ず訪れます。その時まで忍耐して待つことが出来るかどうかが問題です。この世に生を受けうるにも、また天に召されるにも必ず時があります。イエス・キリストは言われました。「私は再び来る。」と。教会はその日を待ち望んでいます。初代教会の人々は、イエス・キリストが復活の後、昇天されたイエス・キリストがすぐにも再びこの世に来られると考えていました。しかし、その希望は成就しませんでした。その時から既に2000年余の時が過ぎています。今を生きる僕たちは、イエス・キリストの再臨の日に一番近い時を生きているのです。そのことを思う時、それは単なる希望ではなく、喜びであり明日を生きる力となるのです。再臨の日に備え、日々祈りと節制を積み重ねてゆきたいと思います。

 

 

聖書の言葉

見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。
わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。<ヨハネの黙示録221213

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命の躍動

 名古屋の街からは、梅の花の開花の便りがありました。これから節分までの間が一番寒いと思う大寒です。節分の翌日が立春、あと2週間ほどです。寒さの中にあっても、その背後では、春を待つ準備をしている小さな命があるのです。日暮れ時刻は、日に日に伸びています。陽の光も心なしか強くなってきたように感じています。これからの時期、僕は春を捜して野山を見て回るのが恒例です。

命が躍動する春の訪れも、もうそう遠くはありません。命は神から賜ったものです。報道によると自殺者の数が、9年連続して減少しているそうです。それでも自殺者は絶えることはないと思います。自殺は神への背信行為です。わかりやすく言えば罪です。神が与えてくださったものを、人が自ら断つことはできません。神がこの世での生活を解いて下さるまで生きなければなりません。この世での生活は、良いことばかりではありません。辛いこと、悲しいことを経験しながら重ねる日々の連続です。しかし、悪いことばかりでもありません。どのような境遇にあろうとも、神に祝福された日々であることには疑う余地はありません。聖書は教えています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。」と。祈りは神との対話の時です。神は寡黙な方です。僕たちの祈りを聞いて下さり、慰めと励ましを与えてくださいます。明日から始まる新しい週に、神の祝福を求めながら信仰の歩みを進めてゆきたいと思います。

 

 

 

聖書の言葉

 

私は裸で母の胎を出た。

また、裸でかしこに帰ろう。

主が与え、主がとられたのだ。

主の聖名はほむべきかな。

<旧約聖書ヨブ記221

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招きに応える

 寒さの中にあっても、時々夜空を見に外に出てみる日があります。今の時期は、オリオン座が際立って見えます。言葉によって、無から有を創造された神の恵みに思いを寄せ、闇に照らし出される星々の瞬きは、天地創造の時から変わっていないのだろうと思い、自らの存在の小さなことを実感しています。小さくてもいい。僕はそう思っています。大きくなろうとは思わないのです。大きくなると必ず、自分がと言う自尊心が生まれます。神が一番嫌われることです。自分がと言う心の人は、自らをあたかも神のように思っているのです。何がそうさせるのでしょうか。社会的な地位でしょうか。或いは財産でしょうか。僕が知るある団体の会長は、新入社員と同じエレベーターになった時、その新入社員を人払いさせました。なんとも情けない話です。イエス・キリストは、社会の底辺にへばりつく様に生きている人々に、虐げられた人々に寄り添われました。神の身分でありながら、自らを低くし、それも十字架に掛けられると言う屈辱的な死に至るまで謙遜を守り通されました。そして、重荷を負って苦しんでいる者は、私の下に来なさい。私があなた方を休ませてあげようと招いておられるのです。教会に集う人々は、イエス・キリストのその言葉に招かれているのです。

そして神の言葉を聞き、祝福を携えて教会をあとにし、日々生きる力を神から頂くのです。僕がこの世にある限り、神の栄光と慈しみを語り続けてゆきたいと思うのです。

 

 

 

讃美歌266番 

 

輝く日を仰ぐとき 
月星(つきほし)(なが)むるとき
(いかずち)鳴り渡るとき 
まことの御神(みかみ)を思う
 

我が魂(たま) いざたたえよ
 聖なる御神を
 我が魂 いざたたえよ
 聖なる御神を

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主の2019年

 クリスマスの内に穏やかな新年を迎えました。このクリスマスも明日の顕現日を以て終わります。新年を迎え、今年こそ、今年も、今年はと思いを馳せた方も多いことだろうと思います。受験生は正月を祝うどころの気分ではなかったのかもしれせん。今までの勉学が実を結ぶことを祈ります。名古屋の東山動物園では、木から落ちないコアラの糞を混ぜたお札を作り500名に配布したそうです。御利益があるかどうかは未知数です。キリスト教ではこのようなことを偶像礼拝と言います。僕も神を知る前のことですが、高校の合格祈願に神社へお参りに行ったことがあります。切羽詰まると頼れるものには身を寄せすがりたくなるのが人情と言うものかもしれません。新たなる年度が神の祝福の内にあることを祈ります。

 

 

 

 毎年、年末になると僕の為にバラの花を届けてくださる方があります。感謝の一言に尽きます。自分のためにと思う気持ちは誰にでもあります。しかし、人のことを思って何かをしてあげようとする人は極まれなことだと思います。聖書は教えています。“自分にして欲しいと思うことは、人にもそのように施しなさい。”と。しかし、この教えも現実的にはなかなかできるものではありません。あたかも自分が損をするような気になるからです。自己中心的な思考です。しかし、神は僕たちのこのような心の弱さをことごとく知っておられ、心の奥を深く探り知られています。それにも関わらずこのような僕たちに、キリストを信じるが故に赦しを与えてくださいます。今年も神の多くの赦しの中で、その恩恵に与り神を讃え神に仕える日々を重ねてゆきたいと思います。

 

聖書の言葉

 主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼を張って昇ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。<イザヤ書402831

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