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試練と回復

今月も半ば。カワズザクラが美しい花を咲かせています。今週は東日本大震災から13年目の年を迎えました。もう13年にもなるのかと僕はあの日のことをよく覚えています。人力によっては立ち向かうことの出来ない自然の大きな力です。自然は人にとって大きな被害を与えることがありますが、花を咲かせ、実を結ばせと人の生きる道をも開いてくれます。幸も不幸も神の御手の中にあるのです。暑さ寒さも彼岸までと古来より語り継がれていますが、その彼岸、春分の日もまもなくのことです。

 

 

 

日々のニュースの中で、悪い報道がない日はありません。それほどまでにこの世は荒んでいるのかと思わされます。神は、人は生まれつき悪いものであると語っています。善悪を弁えることを知らない人が多いのは確かなことであると思います。つい、出来心でと言うこともあれば、人を騙し金銭を奪うことを言わば常としている人もいます。つまり詐欺師と言われる人です。堂々と陽の光を浴びながら生きることの幸いはありません。夜は憩いの時です。これが常となる世が実現するには程遠いことが現実です。神の御力による平和が訪れることを日々祈りたいものです。生きることは苦です。しかし、この苦から解き放たれる時の喜びは何にも例えることは出来ません。足枷を着けられて足を引きずりながら歩む人生は惨めと言いう他ありません。その苦の原因が何にあるかが問題であると思います。自らの欲の故か、神があたえ給う試練なのか。神が与え給う試練の時であれば、その後に必ず回復が約束されています。それは旧約聖書のヨブ記が証しています。日々の苦を自らの力で克服しようとすることには限界があります。苦は深く脳裏に焼き付けられるからです。神の御前に跪いて祈りに祈りを重ねて行きたいと思います。明日からまた新しい週が始まります。新たな週に平安がありますように。

 

今週の讃美

賛美歌310番「しずけきいのりの」♪ "Sweet Hour Of Prayer" - YouTube

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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叶う祈り

実生から育てた紅梅が花を着けてくれました。種を蒔いてから発芽するまでに2年の歳月を要しました。生命力の強さには驚かされます。それにつけ、人はなんと弱いものかと思うのです。躓きの多い人生、その躓きから立ち直ることの出来ないことも少なくはありません。しかし躓きを恐れることはないのです。

僕たちには、主が共に歩んでくださるからです。

 

 

 

三寒四温を繰り返し、時は徐々に本格的な春へと向かっています。季節の移ろいは神が制定されたものです。そう思えば厳しい冬の時期にあっても春が訪れることは確実であって信じるに足りるものです。先に記しました様に、イエスは弱い者と共に歩まれるためにこの世に遣わされました。イエス自身もそのように語られています。そしてご自身に人生の全てを任せなさいと言われました。僕は、神々の中で人と共に歩んでくださる神は他には知り得ません。人は皆、何らかの苦を背負って日々の暮らしを営んでいると思います。一番苦しいのは、生活苦です。豊かに思える我が国でさえ、食に困窮する人々がおられることは事実です。今日の命を、そして明日の命をどのようにして繋いでゆこうかと喘ぐ苦しみは例えようがありません。人生は苦なのです。その苦から解き放って下さるのは、神の御力のみです。直接的な救済はないかもしれません。しかし、イエスの名による日々の祈りは神に届いているのです。この世の苦にたゆむことなく祈りの日々を重ねて行きたいと思います。寒風に耐えて咲く紅梅の様に強くありたいものです。明日からまた新しい週が始まります。新たな週に平安がありますように。

 

今週の讃美歌

讃美歌121番 まぶねの中に (youtube.com)

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強くあれ

待ちに待った3月になりました。早春の草花が花を咲かせています。古来より、暑さ寒さも彼岸までと言われますが彼岸、春分の日も遠くはありません。梅の花が満開となっています。そっと花を近づけ香りを嗅いでみました。幼い頃に嗅いだ香りと変わりはありません。遠い昔が心の中に甦ってきたようです。寒さの中で委縮していた心も春の声に浮足立つように思います。生きると言うことは苦が伴うものです。その苦を癒して下さるのは神から給う恵みと癒しです。

 

 

 

僕たちは日々、祈りを捧げますが、その祈りを神に捧げながらも心の内はその時々で変わります。神に誓いを立てながらも、その誓いを全うすることは出来ないのが僕たちの心の弱さです。自らの思いを優先させてしまうのが原因です。ですから今日一日を省みる時、自らの弱さを嘆き後悔の念に浸ることがしばしばです。しかし、神は僕たちの心の弱さを知っておられ赦しを与えて下さいます。日々の暮らしを平穏に過ごしたいと願いながらも、様々な思いに誘わなれ自己中心な僕たちは神の御前に自らの弱さを嘆くことになります。人生に対する妥協です。イエスは、天を指して誓ってはならない。地を指して誓ってはならないと語られています。イエスは僕たちの心の弱さをよくご存知なのです。僕たちは自らの心の弱さを自らの力で克服することは出来ません。旧約聖書の御言葉には、強くあれ、雄々しくあれと激励の御言葉があります。ヨシュア記に記されたヨシュアに対する神の御言葉です。神は僕たちがどのような状況にあっても共に歩んでくださいます。そして決してあなたを見捨てはしないと語られています。僕たちの神、全知全能の神に、人生の全てを委ね雨の日も夜も御心に従う日々を重ねて行きたいと思います。明日からまた新しい週が始まります。新たな週に平安がありますように。

 

今週の讃美歌

讃美歌514番 よわき者よ (youtube.com)

 

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罪の赦しを請う

ここかしこで春の気配が見受けられるようになりました。庭の片隅に植えてある河津桜にも一輪の花が咲きました。満開になるまでには、あと2週間はかかると思います。桜の花は、日本人にとって最も身近で美しい花と言えるのではないでしょうか。まさに春は青春です。白秋の年齢を迎えた僕ですが、青春の日々を思い起こし、その気持ちを持ち続けたいと思います。

 

 

退院しておおよそ一ヶ月を経ました。僕は心に病気を持っています。心の病気は外観では判りません。日々、生きる悩みに苛まれる苦しみは当人のみが知り得ることです。薬の力を借りて生きる日々、神から給う平安を祈り願う日々です。主イエスは僕たちにとって、悩みある時の慰めであります。僕たちは神に祈りを捧げる時、自らの願望ばかりを祈ってはいないでしょうか。それはそれでよいのですが、罪の赦しの祈りを忘れてはいないのではないかと思うのです。今日、一日の命を支えて下さった神に感謝の祈りは勿論のこと、僕たちは罪人でありますから、日一日の中で、心の内に悪しき思い、卑しき思いを抱くことが多分にあると思うのです。そして今日一日が、神の御胸に沿った歩みが出来たかどうかを省みるべきであると考えます。僕たちは、主イエスによって罪の縄目から解き放たれました。だからと言ってこの世にある限り罪人なのです。自覚のない罪の多々あります。ですからこそ罪の赦しを請うことが大切であると思います。これは主の祈りの内にもあります。主イエスが教えられた祈りです。今一度このことを思い起こし、一方ならぬ神の愛に応えて行きたいと思います。明日からまた新しい週が始まります。新たな週に平安がありますように。

 

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を
今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、
我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、
限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

 

今週の讃美歌

賛美歌239 さまよう人々 (youtube.com)

 

 

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永遠の言葉

梅の花の開花、カワズザクラの開花の便りが聞かれる時期になりました。今週は関東地方で春一番が吹いたとのニュースがありました。春の訪れもそう遠くはないと感じています。厳しい冬を乗り越えてこそ、その喜びには大きなものがあります。僕の家の庭先にもチューリップが芽を出しています。まだ早いのではないのかと思い、咲き急ぐなとチューリップに語りかけています。早春賦の歌詞が思い起こされます。

 

僕たちがこの世で生きて行く限り、お金がついて回ります。何もしないでもお金は必要です。しかし、お金に執着することは虚しいことです。お金は、労働の代価として与えられるものです。働かずに得られるお金はありません。ですから僕は、株、投資などには全く興味がありません。金融機関から勧められることが多々ありますが、全てお断りしています。そのようなものに費やすほどの余裕がないからです。かと言って経済にとって株や投資は消極的な意味合いでなくてはならないものであることは否定しません。ただ僕には縁のない話と言うことです。お金に目がくらみどれだけの人が悲惨な状況におかれたかは言うに足りません。分相応のものを神は必ず与えて下さるのです。「神と富、両方に仕えることは出来ない」。と御言葉は物語ります。何よりも心の平安を求めるべきであると僕は考えています。今日、命あることに喜びを感じることに喜びを感じ、感謝を捧げるべきであると僕は考えています。このことを満たして下さるのが、神の言葉である聖書です。誰もがそうであるように、僕にも悩みがあり苦しみを抱えています。

しかし、生きて行かなければなりません。その糧となるのが、御言葉です。このことを克服できる日が必ず訪れると信じています。人の言葉は一時的なものですが、神の言葉は永遠です。この罪深き者にさえも恵みを与え顧みて下さる方は、神のみです。罪深きところに恵みはいやまさらんと言われています。日々、自らを省みる日々を重ねて行きたいと思います。明日からまた新しい週が始まります。新たな週に平安がありますように。

 

今週の讃美歌

讃美歌1編 370「めさめよ、わが霊」多重録音 (youtube.com)

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命あればこそ

当地では、今年はもう雪が降らないのかなと思わせる天候が続きます。生活にとって雪が降らないことは都合が良いものですが、降らなければ降らないで温暖化の心配があります。春を待つ生き物たちが、この時かと春の訪れを待っています。

退院後の僕の状況も今のところ順調に経緯しています。健康とはこんなにも有難いものなのかと感謝しています。医療は日進月歩の状況にあり、一人でも多くの人の命を救うために尽力されている科学者の方々がおられることに目を向けなければならないと感じるところです。

 

 

僕は63歳になっています。この先、何年生きられるだろうかとふと思うことがあります。既に同級生が4名亡くなられています。日々、命があることに感謝を捧げています。神が定められた時、天の御用の為に御許に召されるのだと確信しています。喜びを以て日々を重ねることは、免疫力を増強させる効果があると聞いたことがあります。聖書は、いつも喜んでいなさい、たえず祈りなさいと記しています。しかし、いつも喜んでいることが出来るでしょうか。月夜の晩ばかりではないのです。しかしどのような状況に陥っても命があるのです。命ほど有難いものはありません。これは、この上ない喜びではないでしょうか。

全世界を手に入れても、命を損ねたら何の益があろうかとイエスは語られています。日ごとに継続される命に目を向け、神への感謝の祈りを絶やすことなく重ねて行きたいと思います。例え逆境に陥っても、その根底には命があるのです。私はあなたを見捨てはしないと言う御言葉に信頼し、夕となり朝となる日々を重ねて行きたいと思います。明日からまた新しい週が始まります。新たな週に平安がありますように。

 

今週の讃美歌

「試みの世にあれど」讃美歌358番 - YouTube

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義人なし

ほぼ一ヶ月の及ぶ入院生活でしたが無事退院することが出来ました。やはり家が一番いいです。広く世の中を見れば、家のない方々がおられることに目を向けなければなりません。かと言って一個人が出来ることには限界があります。しかし、神が見捨てられたのではないと信じたいと思います。僕たちの多くは何と言って不足のない生活を送っていると思います。このことに感謝を捧げなければなりません。能登の震災の光景を見て、今更ながらに思い知らされました。

 

 

冬来たりなば春遠からじ。今日は節分、明日は暦の上では立春です。春の訪れも遠いことではありません。僕は浮足立つ思いです。人の感情は、その時におかれた状況によって変化します。これは日常、誰にもあることですが心の平安を僕は求めています。僕が一日の内で一番幸福の時は、神への祈りを捧げる時です。神への感謝と罪の赦しの祈りです。牧師とて罪人であることに間違いはありません。ですから僕は、聖職者と言う言葉に疑問を持ちます。多くの教会宛に書簡を記したパウロは自らを、罪人の頭と言っています。また伝道の書の記述には、義人なし、ただの一人だに無しとあります。どうでしょうか、僕たちは普段の生活の中で罪意識があるでしょうか。おそらくありません。ですから僕は一日の終わりの就寝前に、一日を顧みるのです。それが祈りへと繋がってゆきます。祈りに形式はありません。自分の言葉でいいのです。イエスは、私の名によって願うことは叶えてあげようと語られています。祈りが目に見えて叶わなかったとしても、その裏側では叶えられているのです。以前にも記しましたが、無名戦士の詩を記して今回は終わります。

また明日からまた新しい週が始まります。新たな週に平安がありますように。

 

大きなことを成し遂げる為に、

強さを求めたのに

謙遜を学ぶようにと弱さを授かった

偉大なことをできるようにと

健康を求めたのに

より良きことをするようにと病気を賜った

幸せになろうとして 富を求めたのに

賢明であるようにと 貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようと 成功を求めたのに

得意にならないようにと 失敗を授かった

人生を楽しむために あらゆるものを求めたのに

あらゆるものを慈しむために 人生を賜った

求めたものは一つとして与えられなかったが

願いは全て聞き届けられた

私はもっとも豊かに祝福されたのだ

 

今週の讃美歌

さかえにみちたる (第194番) (youtube.com)

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道はある

今年もあと一日を残すだけになりました。大晦日ですね。クリスマスの期間にあって新年を迎える準備を心置きなく済ませたいと思います。今週、僕は過ぎし日々を顧みてみました。洗礼を受けた年のクリスマスは、真のホワイトクリスマスで積雪は30センチほどあったと思います。畳敷きの礼拝堂には50名ほどがクリスマスを祝うために集まっていました。もう40年も前の話です。現在、その教会は会員6名ほど。衰退の一途を辿っています。この様な教会は珍しくないと思います。同市内にある他教派の教会も例外ではありません。教会の存在と主の福音とを世に知らしめるために何を成したらよいかを主に願い求めたいと思います。

 

 

 

古き良き時代を思うとき、物質的には恵まれないにしても心が豊であったと思います。時代の流れは、あったらいいなをあって当然に変えてきました。僕はこのことを否定しません。

しかし、失ったものも数多くあります。失ったものは取り戻すことは出来ません。僕は花が好きなことをブログでもお分かりのことと存じますが、僕の家の周囲で失った植物は数多くあります。オミナエシ、リンドウ、マツムシソウ、ツキミソウ、センブリ、セリ、アケビ…数知れません。温暖化もさることながら、乱開発が拍車をかけていると思います。人の欲は留まるところを知りません。便利な生活が豊かな生活であると言う方程式は成り立たないと思います。豊かさの故に人の心は高慢になり、人情に事欠く結末になりゆく傾向にあると考えるのです。過ぎし日は良く思えるものです。それは未来が見えないからです。しかし、主は僕たちが歩む道を備えていてくださいます。決して平たんな道ばかりではないかもしれません。しかし、その道は天に続く道であることは間違いのないことです。人に馬鹿にされ、嘲笑われても、備えたもう主の道を踏み外すことなく歩んでゆきたいと思います。

明日からまた新しい週が始まります。新年の幕も切って落とされます。祝福の内にありますように。そして平安がありますように。

 

今週の讃美歌

【讃美歌411 すべしらす神よ-日本語歌詞付き】RITAMY讃美歌集-癒しのパイプオルガン【映像×癒しの讃美歌】 (youtube.com)

 

僕は1月中、入院をすることになりました。閲覧頂いている皆様には申し訳ありませんが、次回のブログ更新は、2月3日になります。

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救世主の生誕

今年も残り僅かになりました。今年一年を振り返ってみると喜びも数多くありましたが、苦境に立たされることもしばしばでした。僕のみならず誰もがそうであると思います。喜びを忘れても、苦境に立たされた思いは深く心に刻みつけられるものです。僕たちは常に重荷を負うて日々を重ねているのです。しかし、苦境は喜びへと変わることを確信し主を仰ぎ見つつ生きて行きたいと思います。雨の日ばかりではないからです。

 

 

明日はクリスマス・イブとなりました。燭火礼拝を執り行う教会も数多くあると思います。僕が教会でクリスマスを過ごしたのは、19歳の時でした。40余年も前のことです。クリスマスの過ごし方は千差万別で、クリスマスケーキを食べる日、クリスマスプレゼントをもらう人化していることが大方であると思います。クリスマスを楽しみにしている子供には、その意味が分からなくても何の罪もありません。サンタクロースがプレゼントを持ってきてくれると信じているからです。僕が若き日に、教会の依頼でサンタクロース役を引き受けたことがあります。僕を見つめる子供たちの無垢で純粋なキラキラした目を忘れることが出来ません。この年になってもクリスマスプレゼントは嬉しいものです。今週はドイツの友人からクリスマスプレゼントが届きました。僕を覚え、送って下さるその気持ちに感謝しています。キリストあってのクリスマスです。神の救いの業に心を寄せクリスマスの期間を過ごしたいと思います。聖書には、12月25日がキリストの生誕日であると言う記載はありません。クリスマスは、宣教にあって北欧の冬至の祭りと融合したものであると言う一説があります。理屈は抜きにして、救い主、イエス・キリストがこの世に現れたと言うことに尽きるのです。明日からまた新しい週が始まります。1月6日までのクリスマスの期間、浮足立つことなく心静かに救世主の生誕を祝う日々を過ごして行きたいと思います。平安がありますように。

 

今週の讃美歌

輝く日を仰ぐとき - YouTube

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人を思う

今年も後2週間ほど。長かった様な、それでいてあっという間であったような一年でした。時の流れは止めることは出来ません。その時々を大切に価値ある時間を過ごしたいと思います。週末は雨模様です。これからの雨は寒さをよび、それが雪へと変わって行きます。冬来たりなば、春遠からじと言う言葉があります。この厳しい時期の向こうには、必ず春があることを確信し日々を重ねて行きたいと思います。これは人生においても言えることであると思います。

 

 

 

街はクリスマスの雰囲気に包まれてきました。また早くも正月飾りや鏡餅なども販売されています。一年で一番賑わう時期であるかもしれません。先日はドイツ在住の友人からクリスマスの小包みを送ったとの連絡がありました。受取りを楽しみにしています。楽しみと同時に、僕の存在を気にかけて下さる友人の心に感謝を捧げるのです。人と人との関係はこのようなものではないでしょうか。良くして下さるばかりが友人ではありません。時には注意することも必要であると考えます。このことで人間関係が崩れたとしたら、それは真の友人ではなかったのかもしれません。イエスは言われました。「私はあなた方を友と呼ぶ。」と。

神の御子が僕たちを友と呼んで下さるのです。この上ない喜びです。イエスはその生涯を僕たちの救いの為に費やされました。人には出来る業ではありません。そして最後には恥辱に満ちた十字架上で死を遂げられたのです。イエスが誕生した時に、東方の3博士が捧げものに持ってこられたものに、没薬があります。これは死者に使うものです。イエスは、誕生のその時から死が決定付けられていたのです。「友の為に命を捨てること。これより尊い愛はない。」。とイエスは語られています。人を人として愛さなくては出来得ないことです。

 比叡山延暦寺の修行の一つに千日回峰と言うものがあります。行者は衆生救済のためにこのような厳しい修行を行うのです。僕は中学校の頃、千日回峰の修行をしている行者のTV番組を見たことを覚えています。千日回峰が終わると阿闍梨と言う称号が付与されます。この方は、千日回峰を2回行い、現在では大阿闍梨として比叡山におられます。中学校のころ見た面影が残っておられました。尊い修行であると思います。自らの為の修業ではなく、衆生のための修行です。宗教は異なりますが、これも人を思わなくては出来ない業であると思います。

クリスマスも日ごとに近づく中、明日からまた新しい週が始まります。新たな週に平安がありますように。

 

今週の讃美歌

まぶねの中に 讃美歌121番【歌詞付き】remake   イエスキリストのご降誕を心からお祝いいたします。メリークリスマス! (youtube.com)

 

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