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神の愛

 立冬を過ぎ、晩秋から初冬へと季節は移りゆきます。これから年末にかけては慌ただしい日々が続きそうです。と言っても僕自身が慌ただしいのではなく、世間の慌ただしさに乗せられてしまう僕であるのです。今年一年の締めくくりの時期です。その中で神の恵みに感謝を捧げつつ身を制して、為すべきことのみに精進したいと思います。

 

 一般の新年を迎える前に、教会はクリスマスの4週間前から新年に入ります。教会暦では、待降節あるいは降臨節と言います。クリスマスを迎える準備の期間です。一般的にはクリスマスは、1225日だけのことと思われがちですが、16日までがクリスマスの期間です。イエス・キリストが、1225日に生まれたと言うことは聖書66巻のどこにも記されていません。古くからの教会の伝統に従って、1225日をクリスマスと定め祝うのが教会です。

 

 

 イエス・キリストは、僕たち罪人の罪を贖うためにこの世に遣わされました。すべての生涯を人の為に費やし、何一つ自分の為になることは為さらなかったのです。人に仕える人であり、神の独り子でありました。その人生の行き着くところは、神の独り子でありながらも、華々しいものではなく、煌びやかなものでもなく、恥辱に満ちた十字架での死であったのです。このことによって僕たちの罪は赦されました。神がイエスをこの世に遣わされたのは、人を裁くためではなく、誰一人として滅びることなく永遠の命を得させるためであったのです。ここに神の人に対する大きな愛があります。

 しかし僕たちは、この神の愛を忘れ、イエスの十字架の死を忘れ、今もなお罪を重ねています。罪とは、神に背を向けることです。今年もクリスマスを機に、神の恵みと大いなる愛を覚えつつ、僕たちは何をなして神に報いたらよいかを考えたいと思います。

 

聖書の言葉

「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」<マタイによる福音書316

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友と呼ばれ

 雪虫が舞う時期になりました。教会暦も終末に入り年の瀬が近いことを身をもって感じるこの頃です。今月は僕の誕生月です。57歳になります。定年退職までの月日を数えられるようになりました。歳を重ねても、無駄に時間を費やしているように思える自らに少しばかり情けない思いをしています。熟年と言われる歳です。それなりの立ち居振る舞いをしなければならないと自責の念に迫られています。今までの人生のうちに、様々な人との交わりがありました。友を得、また亡くしの繰り返しであったと思います。

 固く結ばれた友情ほど人生を豊かにしてくれるものはないと思います。僕の一番長い付き合いの友人との、友としての関係は37年に及びます。この関係は、死が二人を引き裂くまで続くと思うのです。この間には、良い関係にあった時ばかりではありません。時として中違いをしたこともあります。しかし、この友人との間には堅い信頼があるので、今この時まで、友としての関係が続いているのだと言う確信があります。

 

 
 イエスは、僕たちに、「私はあなたがたを友と呼ぶ」と言われました。イエスに友と呼ばれることは嬉しいことです。自分のことを「この人は私の友です。」と紹介されれば、誰でも嬉しいはずです。その人が、自分のことを特別な関係にある者として見ていると言うことだからです。そして、友と言って下さる方がイエスであれば、尚更、嬉しいに違いありません。僕たちには、この様な感覚があるでしょうか。

 しかし、一方で、この事に、僕たちは少なからず戸惑いを覚えずにはいられません。果たして、イエス・キリストと僕たちの関係は、友情のようなものなのかと言うことです。人間の友情を考えて見ますと、それは非常に曖昧なものです。少し前まで仲良しだったのに、些細なきっかけで仲違いをしてしまうと言うことも生じます。友と言うのは、関係が希薄であるかのように感じます。イエスは、イエス自身に従う者を兄弟とも呼んでいます。今更、友と呼ぶ必要があるのかとの思いもします。僕たちは友と聞くと、気心の知れた、自分と気の合う人との慣れ親しんだ関係を思い浮かべます。そのように考えると、イエスと言う僕たちが主とあがめるべきイエスとの関係が、友情に譬えられると言うのはいかがなものかと思うのです。

 しかし、イエスが信仰者を友と呼ぶ時、一般的に思い浮かべるような友情を意味するのではありません。もっと深い、特別な関係が見つめられているのです。イエスは僕たちを友と呼ばれました。そして、天の父は僕たちを、子よと呼んで下さっています。この慈しみの中を歩む人生は、無駄に時間を費やしているのではなく、神に祝福された豊かな人生に違いありません。

 

聖書の言葉

「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない 私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。 もはや、私はあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。私はあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。」<ヨハネによる福音書15章12〜17>

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見ないで信じる

 今月も訳なく終わり、もう11月です。まさに月日の流れは、光陰矢の如しです。自然界の循環は、とどまることなく巡ります。家の庭先では、鉢植えのリンドウの花が満開になりました。野生のものを採ってきたものです。僕が幼いころには、どこにもあったリンドウですが、今に至っては希少種です。この地域では絶滅危惧種かもれません。秋の七草も少なくなりました。自然は病んでいます。その根源は、僕たち人類にあります。その僕たちも現代社会の中で病んでいるのです。健全な心を取り戻すには、神に立ち返るしか方法はないと思います。しかし、そうできる人は少ないのです。神に従うより、自由気ままに、自己中心に生きる方が楽で楽しいからです。神の愛に触れる喜びを一人でも多くの人に伝えたい。これが僕の思いです。

 

 

 神を信じたからと言って、病気が治るわけではありません。苦がなくなるわけではありません。しかし、神を信じた瞬間から、それ以上のものが心のうちに湧き出るのです。僕は神の救いを幾度となく経験してきました。それは苦悩のどん底にあるときでした。僕がそう思っているだけだと思う方もおられるかも知れません。しかし、その救いと思うことによって、僕は立ちなおる方向が見えてきたのです。神がその方向を示してくださったのだと確信しています。それがなければ僕はもしかしたら生ける屍と化していたかもしれません。その後、僕は牧師への道を選びました。それは、僕たちの信じる神の素晴らしさを伝えたいためでした。しかし、厳しい現実です。目に見えるものをも信じられないこの社会の中で、ましてや目に見えない神を信じると言うことは、無理とは言わないにしても困難なことでしょう。イエス・キリストは言いました。「あなたは見たから信じるのか。見ないで信じる者は幸いである。」と。

 

聖書の言葉

それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

<ヨハネによる福音書 20 27

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試練の時

 一昨日も、昨日も、今日も、そして明日も雨模様の毎日。一日も早く日の光を浴びたいと思います。天気予報によると、25日までは雨です。僕の記憶の中で、こんなにも長い期間、雨が降り続けたことはなかったように思います。恵みの雨と言うこともありますが、今回の雨は、台風も伴い災害をもたらす雨になるかもしれません。果樹農家では、台風の害を最小限にするために、収穫を早めたと言うニュースもありました。

 この時期に秋雨前線が出現するのも時期遅しと思います。たいていの場合、9月中旬ごろであった記憶があります。天の法則が歪められてきているのかと思うのです。天の法則が歪められれば、必然的に地の法則も歪められます。僕たち人類には太刀打ちできない神の定められた法則であるのです。その法則を歪めたのは、僕たち人類の責任であります。

 

 

 創世記に記されているノアの洪水は、4040夜続きました。神は地の上の悪を洪水によって一掃されたのです。ちなみに聖書には40と言う数字がここかしこに記されています。

40と言う数字は、聖書においては試練の数字です。マタイによる福音書に記されているイエス・キリストがサタンの試みにあわれたのも40日間でした。

 神は様々な形をとって、僕たちに試練を与えられます。僕たち自身は、それを不運と嘆くか、または神の試練として耐え忍ぶかどちらかです。神の子とされた信仰者である僕たちは、神の試練として受け止めます。獅子は子を千尋の谷に突き落とすと言う言葉があるように、父が子を鍛えるために、試練を与えることはあり得ることです。しかし神は、耐えられないような試練を与えられることはありません。もし、耐えられないと判断されたならば、必ず逃れの道を開いてくださいます。神の試練の後には、必ずそれに見合った祝福があるのです。

決して僕たちを見捨てられることはありません。

 

聖書の言葉

 私たちの負い目を赦してください。

 私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。

 私たちを誘惑に遭わせず、悪いものから救ってください。

 

<マタイによる福音書61213>

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新しい時代

 この先は暫くすっきりしないと言う天気予報です。これからの雨は、一雨ごとに寒さが募ってゆきます。これも神が定められた知の法則、寒さにさえ感謝を以て受け止めたいと思います。しかし、この時期にならなければ出回らないものがあります。僕にとっては嬉しい限りのことですが、スーパーの店頭には、ありとあらゆる秋の果物が並んでいます。果物好きの僕にとっては、たまらない時期の訪れです。収穫の秋に感謝を捧げます。

 

 衆議院が解散し、街頭では選挙の街宣車が熱弁を奮っています。どうして今の時期に解散なのかと疑問を持たれた国民が多いようですが、僕もその一人です。解散すると党派の分裂、聞いたこともない党派が出現。真剣に、この国の将来を考えている議員がどれだけいるのだろうと疑問を持たざるを得ません。国民に負担を求めるより、自らの姿勢を正せと言いたい気分です。権力争いは、今の時代に始まったことではありません。古今東西、古の昔から続いている人の世の定めとでも言うのでしょうか。

 

 

 僕が幼かったころ、漫才師が「地位も名誉もいらないが、わたしゃもう少し背が欲しい。」と言って茶の間をわかせたものです。僕も地位にも名誉にも価値を感じません。選挙の時は熱弁を奮いながら、当選すると手に平を返した様に、あたかも特権を得たかの様に振る舞うのが、議員の正体であるかの様に冷めた目で見ている僕です。党派同士で重箱の隅をつつく様な演説は聞きたくありません。これではこの国の将来はないと思います。次々と変わる政権より、安定した長期政権を求めます。議員は、国民あっての議員であるということを認識すべきです。この国の議員は国民の代表として、国民に仕えるべきであるのです。

 

 イエス・キリストは、神の身分でありながら、自らのためには何一つ良きことをなされませんでした。生涯の全てを通して謙り、世の中から弾き出された人々、世の中の底辺に身を隠すかのようにして暮らしている人々、虐げられた人々のために働かれました。トップリーダーの時代は終焉を迎えています。これからの時代に求められるのは、サーバントリーダーです。22日には新しい政権の見通しがつきます。いわば新しく始まるこの国の時代を支えてくれる党派が政権をとることができるでしょうか。

 

聖書の言葉

 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。<フィリピの信徒への手紙268

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愛の光

 一昨日は、中秋の名月の夜でした。旧暦の815日の夜の月を中秋の名月と言い、満月になるとは限らないそうです。僕はてっきり満月だと思っていました。今の時代、お供え物を整えて月見をするような家は稀であると思います。

 天地創造の時、神が光る物を造られたと記されています。第四の日のことです。大きな日かる物に昼を治めさせ、小さな光る物に夜を治めさせました。こうして光と闇を分けられたのです。

 聖書において光は希望を、そして闇は苦悩を、そして堕落した世の中を暗示します。ヨハネによる福音書は冒頭に、「初めに言があった。言は神と共にあった。言神であった。・・言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」と独特の文体で記しています。ヨハネが記したこの光は、イエス・キリストを意味するものです。そして暗闇はこの世を意味しています。

 

 

 悠久の昔から、この世は暗闇に覆われてきました。そのような中で、真心から光を求める人々はどれだけいたことでしょうか。ヨハネが記したように、暗闇は光を理解しなかったのです。理解しようとしなかったのです。この世を照らす真の光として来られたイエス・キリストは暗闇を照らし出します。イエス・キリストこそ世の光であり、僕たちの希望です。イエス・キリストの放つ光は、愛の光です。苦悩から僕たちを開放し、希望を与える力があるのです。僕たちはこの光に照らし出されて日々の命を頂いています。苦悩の中にあっても、イエス・キリストを見上げるとき、慰めと平安が与えられます。そしてイエス・キリストの言葉には、命が宿っています。この言葉に触れたとき、生きる力が沸き上がって来るのです。

どれだけの人が、この言葉によって慰められ、命を得たことでしょうか。

 

聖書の言葉

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった。<ヨハネによる福音書115

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父なる神

 早や10月の声を聞く時期になりました。僕の家の庭先にある柿の木の実は今が食べごろです。僕の曾祖母が嫁入りしたころからあった木と言うので、樹齢は200年ほどになると思います。木は何も語りませんが、春も秋も、夏も冬も僕の家を、そして僕たち家族を見てきた木です。僕の死後も生きながらえる木であると思います。おそらく僕の先祖が幼木を植えたものであると思います。木の生きてきた歴史の中には、明治維新もありました。戦争もありました。この木の持つ悠久の歴史の中にとても力強いものを感じます。

 

 聖書の中に出てくる木と言えば、イチジクがあります。エデンの園でアダムとエバがヘビに誘惑されて禁断の木の実を食べたため、自分たちが裸であることに気が付き、イチジクの葉で腰を覆ったと言う創世記の記事は有名な話です。ここで人類の始祖であるアダムとエバには、自我が芽生えたのです。自我とは罪の始まりです。このことにより人類はすべて罪に定められることになりました。罪とは神から離れた状態です。神に背くことです。しかし神は、この愚かな罪深い僕たちをも、神に立ち返ることを無条件で赦されます。それは、僕たちは神によって造られたものだからです。神ご自身が造られたものを、神は罪あるままにしてはおかれません。ここに神の一方ならぬ愛があります。自らの罪を悔い改め、神に立ち返る者を神はそのまま受け入れてくださるのです。神の愛はかえりみを望まれません。そして、神の前に何の功績もない僕たちを受け入れ神の子としてくださいました。この世の中にこれ以上の幸いはあるでしょうか。僕たちの信じる神は、今も活きて働かれます。この神は僕たちを子よと呼び、僕たちは父よと応えるのです。神の名を讃える声が全世界に開かれますように。

 

 

書の言葉

 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はイチジクの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。<創世記3114

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立ち返れ

 今日は秋分の日、太陽が秋分点を通る日です。また彼岸の中日でもあります。暑さ寒さも彼岸までと言いますが、このところ朝晩はめっきり涼しくなってきました。昔の人の言うことは間違いないようです。こんな時期、庭先にタンポポの花を見つけました。これから本格的な秋の深まりを日に日に目に、そして肌に感じる時期になります。僕の家の庭先の柿の木の実は、すでに食べごろになっています。秋には収穫と言う感覚があります。稲刈りも始まりました。田畑で育てたものも、野のものも収穫できる時期です。その恩恵に与ることができるもの神の恵みです。神への感謝を忘れてはならないと思います。神の恵み無くしては収穫はあり得ないのです。

 

 

 食は命の源泉です。しかし僕たちは、口から入るものだけによって生きているのではありません。イエスは言われました。「人はパンのみによって生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるのである。」口から入るものは、体を養います。それに対して、神の言葉は、心を養ってくれるのです。心が養わなければ、ただ生きているだけと言うことになってしまいます。体と心のバランスが取れて初めて健全な生き方ができるのです。しかし、愚かなことに僕たちは、心を養うことを疎かにしがちです。神から遠のき、一人歩きを始めた人類は、心の存在を置き去りにしてしまい、自己中心に生きることを良しとしてしまったのです。心が荒むのは、ここに原因があります。それでも僕たちはこれが自由に生きる生き方であると勘違いしているのです。神はこのような僕たちを忍耐して見ておられます。悔いて嘆く日が来る前に、神に立ち返らなければなりません。

 

 聖書の言葉

 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」<マタイによる福音書414

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食べられることへの感謝

 春に種を蒔いた作物が収穫できる時期になりました。思えば長い月日を丹精込めて育てたものの喜びの収穫です。果樹も収穫の時期になり、喜びはこの上ないものです。僕の家の庭の片隅に、ブルーベリーが植えてあります。ブルーベリーも少しづつながら収穫できるようになりました。ところが、僕が収穫する量よりも、鳥に食べられる量の方が多いようです。折角実った実を鳥に食べられてしまうことはシャクにさわります。

 人はせっせと田畑を耕し、種を蒔いて収穫を得るのですが、鳥は何もせず実った木の実を遠慮なく採って食べてしまうのです。鳥には木の実を食べられ、イノシシには畑を荒らされ、愕然としてしまいます。カラスにはトウモロコシをすべて食べられてしまいました。

こうなるともう諦めしかありません。

 

 

 天地創造の時、神は人にエデンの園にあるどの木からも取って食べてよいと言われました。ただし禁断の木の実は食べてはならないことが条件でした。ところが、蛇に入れ知恵された人は、禁断の木から実を採って食べたのです。これが人の堕落の始まりです。罪の始まりです。神は人に食となるものをすべて与えて下さいました。その有り難い食物を粗末にすることは僕の信条に反します。飽食の時代と言われる現代の社会の中で、その裏側には、今日一日の食べ物にも事欠く人々がいると言う現実があります。食は生きて行くための原動力です。地球規模で見れば飢餓に苦しむ人々は数知れません。その多くは何の罪もない人々なのです。僕たちにできることは何かと考える時、第一にできることは、神が与えて下さった食物を粗末にしないことです。神が人に食物を与えられたことは創世記に記されています。最初は地の青草を食物として与えて下さいました。そしてノアの洪水の後は、動物をも食物として与えられたのです。

 この神の恵みに感謝を捧げつつ、今、食に事欠く人、飢餓にある人々が何れの日にか飢餓から解放され、心豊かに平安な日々を過ごすことが出来る日の訪れることを祈ります。何が有り難いと言って食より有り難いものはないと僕は考えます。

 

聖書の言葉

 我らの日用の糧を今日も与え給え。<マタイによる福音書611

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人の賢さ、神の愚かさ

 今日は、重陽の節句です。分かりやすく言えば菊の節句です。まだ菊の花が咲くのには早い時期ですが、重陽の言葉に秋の訪れを感じます。夏と秋の交錯するこの時期、夜鳴く虫の声が増える度に、秋の深まり行くのを感じます。今日の僕は頭痛の一日でした。僕の頭痛は15歳の時から続いています。中学校3年生の時の体育の時間の鉄棒の授業で、鉄棒から転落し頭部を打ったのです。給食の時間に教室で倒れ、気が付いたら病院のベッドの上でした。それ以来、天気が変わる前になると頭痛に襲われます。近いうちに雨が降ることでしょう。僕の頭痛はいわゆる神経痛です。残念ながら気象予報士ほどの精度はありません。

 

 人は神の定められた天の法則、地の法則を解読し、僕たちの生活に役立つものを多く作り出し、また見つけ出してきました。しかし、殺戮兵器など人を殺すための物をも作り出したのです。今や、北朝鮮のミサイル発射の連発は世界の注目の的であり、抑え込むための術も効果はありません。世襲制国家ほど愚かな国はありません。多大は費用を費やしてミサイルを発射したところで、何の価値があるのか凡人の僕にはわかりません。国内の状況を知るところでは、庶民の貧困は極まりないと聞くところです。また、極一部の人が裕福な生活をているとも聞き及んでいます。これはどこの国ににもある事だろうと思います。

庶民の感覚と、為政者の感覚に余りにも温度差があることは我が国にも当てはまります。自らを賢いものと考え、人の上に立っているなどと思うのは神を冒涜することです。

 

 

 

 人の賢さは、神の愚かさにも及ぶことはありません。僕は何はなくとも、神の存在なしの生活は考えられません。それほどまでに神と僕との関係は密接なのです。そして僕の信じる神は、今も活きて働かれる神です。髪の毛一本でさえ、神の御心によらなければ頭から抜け落ちることはないのです。

 世界の情勢が不安定なこの時代を作り出しているのは、人です。何によって人は平和を求めるのでしょうか。平和は人の望むとところです。この地上で虐げられ、食にも事欠く人々が数知れずいると言う事実があります。神の平和がこれらの人々の上にありますように。

 

与えられた翼

 さあ、行こう。もう世間の風におびえる必要ないんだよ。
 神はあなたに、対抗できる翼を与えてくれたんだから。
 あなたの過去は神によって、あがなわれた。
 あなたの肉体は、神が支えている。
 決して折れない翼をつけあなたは 羽ばたいていく。
 私から離れた今でもあなたが神を残してくれた。

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