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信仰の始め

天候が不順であった今週です。この時期、一日でも多く暖かな日差しに恵まれると有難く思うものです。今週は、キウイフルーツの収穫をして半分はジャムにし、残りは生食用に保存しています。今年最後の収穫でした。巡る季節の中で、良い時ばかりではありませんが、時折々の収穫を得ることが出来きることは感謝の一言に尽きます。

 

 

 

クリスマスまでの日数を数えられる時期となりました。昨年は、ドイツ在住の友人がお菓子や紅茶を送ってくださいました。その中に、アドベントカレンダーと言うものがあり、アドベントの日数の紅茶が入っていました。箱の底に出し口があり、そこから毎日一袋づつ出して使うものです。その紅茶は出すごとに異なった味のものでした。ドイツでも日本と同様にクリスチャン人口は減少傾向にあるそうです。ドイツはキリスト教国ですから、信徒の減少は痛手だと思います。しかし、日本は神道か仏教が台頭しています。教会のない町も数多くあります。キリストを信じても行く教会がないのです。この様は境遇にある方々は少なくはないと思います。この様な方々にも神は必ず救いをもたらせて下さると確信してます。

待ちに待ったクリスマス。しかし、一体何を待つのでしょうか。クリスマスケーキ?
クリスマスプレゼント? またクリスマスパーティー? などクリスマスを名にしたものが数多くあります。しかし、クリスマスは復活祭と並んで教会の一大行事です。キリストを置かないではクリスマスはあり得ません。キリストは神の御旨に従って、神の子でありながらも、馬小屋で生まれ飼い葉桶の中に寝かされました。キリストは、知者の知恵を辱める為に、強者の権力を無力にするためにこの世に生まれました。このことは聖書が証しています。

僕はキリスト信仰に深い知識は不要だと思っています。ただ一筋にキリストを信じ、キリストに身を委ねることが信仰の始めです。ただ教職者はそうではありません。信徒と言う羊の群れを神の御許に導かなければなりません。それにはそれ相当の知恵が必要です。理屈ではなく実践なのです。そう言えば神学校時代に実践神学を学んだことを思い浮かべました。

待降節の中、明日からまた新しい週が始まります。新たな週に平安がありますように。

 

 

 

今週の讃美歌

【讃美歌全曲マラソン】讃美歌97番 待降(朝日は昇りて) - YouTube

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苦の

今年も残る日々を数えられる月になりました、慌ただしい年末の訪れです。時期は益々寒さを増し、春の訪れが待ち遠しい気分です。今年一年を振り返り、新たな年への思いを心にする時期でもあると思います。思うように行かないのが常であると思いますが、来年は、来年こそはと今年を振り返り自らを顧みることは健全であると思います。世間の荒波に振り回されることなく、平常心を保ちたいと思います。

 

 

 

生きて行く上で、人生において一番厄介なのが人との関わりであると思います。人間関係です。僕たちは日々、様々な人との関わりの中にあります。それは良い人ばかりとの関わりであることは極まれなことです。人は誰も関わりたくないと思う人があるものです。そのことで心を病む人も少なくはありません。牧師とて同様です。信徒との関係に疲弊して、教会を去り行く牧師もあります。自らの心にどうしたら受け入れられない人を受け入れられるようになるのかは非常に難しい問題です。僕もその一人です。御言葉により頼み祈りを捧げる日々を重ねています。御言葉は、人はパンのみにて生きているのではない。神の口から出る一つ一つによって生きるのであると物語っています。御言葉は命の言葉です。人の言葉は、人を生かしも殺しもしますが、御言葉は命、生きる言葉です。また門をたたきなさい。そうすれば開けてもらえるであろうとも物語ります。これは一度門を叩いたからと言って、すぐさま門が開かれると言うことではありません。門をたたき続けなさいと言うことがこの御言葉の裏にあるのです。つまり祈りに祈りを重ねることです。神は必ず応えて下さると確信し、ついには逃れの道をも開いて下さいます。楽しいだけが人生ではありません。苦をいかにして克服するかが問われるのです。闇の中に光る一点の光。クリスマスも近くなりました。

その光に思いを寄せ僕たちの為に救い主がお生まれになったことを覚えつつ、新たな思いを以てクリスマスを迎えたいと思います。明日からまた新しい週が始まります。新たな週に平安がありますように。

 

今週の讃美歌

讃美歌1編95「わがこころは」多重録音 - YouTube

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人は捨つれど君は捨てず

11月も後半、後一ヶ月でクリスマスを迎えます。年末商戦もたけなわになる時期となりました。早くも店頭には鏡餅などが並べられています。僕がクリスマスを知ったのは、保育園の頃であったと思います。その年ごろでは、クリスマスの意味など知る由もありません。ひとつ鮮明に覚えているのは、母がクリスマスケーキを買っていてくれたことです。親心と言うものでしょうか。アイスクリームのケーキでした。ケーキと一緒に母が用意してくれていたのが赤い紙製の靴に入ったお菓子です。朝起きたら枕元に置いてありました。僕はただただ嬉しい気分であったと記憶しています。この商品は、おそらく今もあるのではないでしょうか。サンタクロースが煙突から入ってきてプレゼントを置いて行って下さるなどと言う話は今の子供たちには通用しないかもしれません。妻子のない僕には少し遠い話です。

 

 

今月末で教会の一年が終わります。12月3日の待降節主日から教会の新年が始まります。ですから明日の礼拝を以て教会暦最後の礼拝となります。今年一年を振り返るとやはり時に応じて神の救いに与かることが出来たと感謝の念に浸ります。もう駄目だと何度も思いました。行く手を塞がれて途方に暮れたことも多々あります。しかし、道は開かれました。これが神の恩寵でなければ何であると言えるでしょうか。牧師も信徒であり、深き罪人であります。神の救いに与からなければ他によるべきものはありません。人は僕を捨て去っても神は僕を捨て去ることはないと確信しています。神との信頼関係です。罪深きところに、恵みはいやまさらん。と言う言葉があります。罪意識を認めることは、自らを消極的にしてしまいます。しかしその裏で神の大いなる恵みがもたらされることを知る時、この世に立ち向かう勇気が与えられるのです。神は、罪人が滅びることを喜ばれる方ではありません。神がイエスをこの世に遣わされたのは、イエスを信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命を得るためであると聖書は物語ります。伝道の書は、その記載の中で、義人なし。唯の一人だに無しと物語っています。世間から善人と評価されている人物であっても、神の御前に「私は善人です。」と言うことは出来ません。神は、人の心の内を深く探り知られる方であることを忘れてはなりません。明日からまた新しい週が始まります。教会暦最後の礼拝の上に祝福がありますように、そして平安がありますように。

 

今週の讃美歌

讃美歌21 463「わが行くみち」多重録音 - YouTube

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苦の克服

今週は、この秋一番の冷え込みになりました。一面、真っ白に霜が降りた風景を見たのは久しぶりのことです。これからの雨は、雨が降るごとに寒さが厳しくなってゆきます。しかし、良くしたもので体は寒さに慣れてゆきますが、寒さには辛いものがあります。来春まで辛抱の時が続きます。寒さを耐え忍んでこそ、春を迎える喜びは大きいと思います。これからが寒さ本番の時を迎えるのですから、この程度の寒さに憂いていてはこの冬を乗り越えることは出来ません。

 

 

さて、人それぞれに重荷を負うて日を重ねています。様々な苦が生き様に影響を与えているのが現実です。僕は苦を苦ともせず、楽観的に生きている人を羨ましくさえ思います。この様な人は稀であるとは思いますが、苦に人生を左右されては生きる望みさえ消え失せてしまします。一番は日々の糧に事欠くことであると思います。霊的糧に満たされても、食に事欠くことは言葉では言いようがありません。しかし食に事欠く人々がおられる現実があります。食は命の源泉です。完全な祈りとも言われる主の祈りの中にも、日用の糧を今日も与え給えと記され、僕たちは日々この祈りを捧げているのです。霊的糧も僕たちにとっては重要なものです。心を養うものだからです。心が萎えてしまうと健全に生きることは出来ません。御言葉には力があります。その御言葉を糧に自らを奮い立たせて世に立ち向かってゆきたいと思います。心の問題は、食の問題と共に生きて行く上でとても重要な事柄です。健全な精神を養ううえで、神から給う御言葉、霊的糧は健全な体を養うことに繋がります、表裏一体をなすものです。苦の克服は神の御力に頼るほかはありません。日々、感謝と喜びを以て主に仕え生きて行きたいと思います。明日は収穫感謝祭です。日々、食に与かることの出来ることに心から感謝を捧げ、食に事欠く人々の為に祈りを捧げたいと思います。新たな週に平安がありますように。

 

今週の讃美歌

まぶねの中に 讃美歌121番 - YouTube

 

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心変わり

明日僕は63歳の誕生日を迎えます。この頃思うことは、はつらつとして生きていた若き日のことです。様々な思いを心に素晴らしい青春であったと思っています。良い仲間に恵まれ、それは日々が楽しいものでありました。苦となるものがなかったように思われます。懐かしい昔の話です。

 

 

 

僕たちは社会的責任を担って日々の生活をしています。それぞれに割り当てられた責任があると言うことです。また神に誓いを立て、日々祈りを捧げることを日課としている方々も多くいられることであると思います。僕もその一人です。しかし神に立てた誓いも、自らの思いであり、揺らぐことが多い現実があります。心に決めたことを成さず、反ってそれに反することが多いのです。イエスは言われました。「天を指して誓うな。地を指して誓うな。」と。人の心は移ろいやすく、思いは常に変わるものです。人の心の弱さの一編です。浮足立ち、吹く風の様に変わる人の心を捉えて下さるのは、神のみです。ただ神への思いと日々の祈りは心から離れることはありません。人の世では取るにも足らぬこの身をも、「子よ」と呼んで下さる神の愛は永遠です。人はいくら親しくしていても、何か気に入らないことの一つでもあると、そっぽを向いて去ってゆきます。寂しい限りの人間関係です。人をぞっこんに信頼するのではなく、やはり節度ある関係が良いと思うのです。僕にも何人かは信頼して付き合っている人がいますが、いずれは別れの時が来るのです。仏教でいうところの一期一会です。その別れを悲しみとしない為にも節度は大切であると思います。悲しみは心に深い傷を残すことが多々あります。それが苦に変わることも珍しくはありません。楽天主義を良しとするわけではありませんが、いつも喜び、たえず祈る姿勢こそ神に喜んでいただける生き様であると思います。明日からまた新しい週が始まります。新たな週に平安がありますように。

 

今週の讃美歌

【讃美歌全曲マラソン】讃美歌71番 三一の神(つくりぬしよ) - YouTube

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神の領域

キンモクセイの花も既に終わり、田の稲の刈り取りも終わろうとしています。早や11月、これからが気分的に忙しくなる時期になりますが、世間の慌ただしさに翻弄されることなく穏やかな日々を過ごして行きたいと思います。さて僕は一昨日、体調がおかしいのでもしやコロナに感染しているのではなかろうかと検査をしてもらえるクリニックを捜し、検査をしてもらった結果、コロナ陽性と言う判定でした。今までをワクチンを必ず接種しマスクの着用は勿論のこと人ごみを避け過ごしてきたのですが感染しました。ドイツ在住の友人は、3回感染の経歴があるそうです。ワクチンを接種したからと言い、また一回感染したから抗体が出来ているから大丈夫と言うことはコロナには通用しないようです。

 

 

 

今の時代、かつてはなかった疾病が表に出てきています。コロナは勿論のこと、かつてはサーズがありました。エイズもありました。これらは今は表ざたにはなっていませんが、水面下で動いている可能性があります。しかし人類は、治療不可と言われた病気を克服してきた実績があります。科学者たちの研究の成果の恩恵を受けているわけです。聖路加国際病院は、福音書の記者ルカの名に因むものです。ルカは医者でした。パウロの伝道旅行に同行しています。体の弱かったパウロを気遣ったものと思われます。聖書には重い皮膚病という表現が至る所に記されています。かつての聖書では、ライ病と記載されていました。旧約聖書の律法には、このような病気にかかった人をどのように扱うかが記されています。決して不浄なものとして切り捨てるわけではありません。聖書は人類の叡智、救いの業の集大成です。イエスも目の見えない人の目を開き、足の悪い人の足を治す業を行っています。当時の医療は、医療と言う言葉を使うには程遠いものであったと思われます。我が国においても同様です。またこれから新たな新種のウイルスが出現し、人類を脅かすかもしれません。僕たち人類は、欲の為に人類が入ってはならない領域、つまり神の領域を犯している可能性があります。節度を保たなければなりません。明日からまた新しい週が始まります。健康が支えられますように。そして平安がありますように。

 

今週の讃美歌

実れる田の面は 讃美歌504番【歌詞付き】remake - YouTube

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私の下に来なさい

10月も押し迫って参りました。朝夕の冷え込みは未だ体になじまないこの頃です。時は秋、僕は来月で63歳の誕生日を迎えますが、僕の年頃も秋模様の気がしています。秋を色に例えると白になります。北原白秋の白の文字もこれに因んだものではなかろうかと思っています。まだまだ寒さが増し、厳しい冬を迎えます。これも自然の法則。人は誰一人として逆らうこと出来ません。神が定められたものであるからです。生きている人には厳しい定めでありますが、全ては人の為に定められていることを受け入れたいと思います。

 

 

人生の上で若き日には喜びが満ち溢れることが多いものですが、年を重ねてゆくにつれ様々な苦が人生の上に伸し掛かってきます。それだけ年相応に責任が重くなると言うことであると思います。その苦をどう乗り切るかによってその先の道が見えてきます。苦は自らだけが抱え込むことはありません。主が共に苦を担って歩んでくださるからです。その先の道も主が備えて下さるのです。いくら辛くても主が共に歩んでくださることを確信した時、安らぎが与えられます。福音書には、このように記されています。「すべて、重荷を負うて苦労している者は私の下に来なさい。あなた方を休ませてあげよう」。と。心休まる御言葉です。苦は抱えこむものではありません。強いていえば吐き出すものです。吐き出すことで楽になることは多々あり得ます。主の招きに応えて主の下に甘んじて行きましょう。主が私の下に来なさいと招いて下さるのですから。昨今、心を傷め悩む方々が多い傾向にあります。社会現象のひとつかもしれません。足枷を引きずって重い足取りで歩む日々は虚しいものです。僕は祈りに祈りを重ね、主のお応えを待ちました。祈りは必ず聞き届きます。そして主による霊的経験の中で何度も救いを受けました。その喜びは例えようがありません。主は語られています。「私は道である。」。主と言う道を通り神の示された未来へと歩みを進めることが出来るのです。明日からまた新しい週が始まります。新たな週に平安がありますように。

 

今週の讃美歌

 

「いともかしこし」讃美歌502 - YouTube

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天に積む宝

今週はこんな時期にと思うように、ツクツクボウシが鳴いているのを聞きました。気が付いてみればいつしかセミの声も途絶えています。代わって夜になれば秋の虫の声が聞かれます。木の葉が落ちるまでにはまだ時間がありますがそんなに遠くない日には紅葉を経ながら徐々に落葉することでしょう。そうなれば春の芽吹きを待ち望む日が続きます。永遠の昔より繰り返されてきた自然の法則です。今年は何十年かぶりで山栗の実を拾い集め茹でて食べました。小粒ながら味は満点でした。これも野の生き物の食物の一つになり糧となっているのです。

 

 

今週は自損事故を起こしてしまい相当額の修理費用が発生しました。入ってくる収入は限られていますから、出費を抑えなければなりません。かと言ってお金に執着することは良いものとは考えません。分相応の生活を送る収入があれば十分と思うのですが、少しでも多くの収入を得たいと思うのが人情であると思います。僕の生け花の師匠からは、「お金を追ってはいけません。お金は後から付いてくるのです。」と教えられました。低所得層にある人は少なくはないと思います。僕もその一人です。お金のことで心を乱すことは健全ではありません。三度の食事に満足にありつけることが出来れば幸福だと思います。しかし、それすら与えられない方々がおられることも現実です。イエスは語られています。「天に宝を積みなさい、」と。地の宝はやがてはなくなるものです。錆もせず、虫もつかず、更には腐りもしない天に宝をつみなさいと語られているのです。天に蓄えた宝は永遠です。天に積む宝のありかは、聖書にあります。聖書の御言葉が自らの身に響いたなら、共感したなら、それが天に積む宝の一つとなってゆきます。この先、収穫感謝祭、降誕祭と祝いの教会暦が続きます。全身全霊を以てこの喜びの日に感謝を捧げ、日々の感謝と祈りを重ねて行きたいと思います。明日からまた新しい週が始まります。新たな週に平安がありますように。

 

今週の讃美歌

「我が喜び我が望み」讃美歌527 - YouTube

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僕たちの神

10月も半ばに差し掛かりました。収穫の秋、次の教会暦の行事は、11月12日に直近の日曜日の収穫感謝祭です。しかしながら収穫感謝祭を祝う教会は少ないと思われます。僕たちは神が与えて下さいる食物によって日々の命を繋いでします。スーパーマーケットに行けば食料は何でも手に入れることが出来ますが買ったものにさえ感謝を捧げるべきであると僕は考えています。お金を払えば済むものではないと思うのです。ましてや神が与え給えるものを粗末に扱うことは避けるべきです。給料にしても同様で、労働の代価として与えられるものです。買うものをよく吟味して無駄使いは避け、ましてや遊興費は極力抑えることが望ましいと思います。

 

 

 

世を見るところ、新興宗教は勢いを増しているように思います。人は徴を求めます。これをすれば病気が治る、豊かになることが出来ると教理はいたって単純で若い易いもののようです。それに対しキリスト教会は衰退の傾向にあります。僕が協力牧師をしていた教会の一つには、信徒が3名と言う教会もありました。勿論、無牧の教会です。どうしたら神の福音を世に述べ伝えることが出来るのかは僕も判りません。かつては当地の教会も勢いがありましたが、時代の流れに逆らうことは出来ず信徒は減少の一方です。洗礼を受けた方も一時は熱心に礼拝に通いますが、徐々に足が遠のき不在会員に移される方も少なくはありません。熱しやすく冷めやすい‥‥・日本人の性分かもしれません。僕の友人の一人も、苦境に立たされた生活を送っており、祈祷師の祈祷を受けたいと願っています。僕は他の宗教を否定する気はありません。しかし宗教は人の心を豊かにするものでなければならないと考えています。信じる喜びを与えるものでなけなければならないと思うのです。イエスは言われました。「私は道である。」と。ヘンデルのオラトリオ、メサイアの中のハレルヤコーラスにも歌われています。「Kings of king, Road of road」と。一方なる恵みを与え、決して僕たちを見捨てることのない神こそ僕たちが信じる神です。僕たちが苦境にある時にさえ神は僕たちを見守り、癒しの手を差し伸べて下さっています。神は言われます。「私は罪人が滅びることを喜びはしない。」神が万物の創造主であることを心に刻み、神への賛美、祈り、罪の赦しを日々、捧げることを常としたいと思います。僕たちの人生の全ては、神の御手の内にあるのです。明日からまた新しい週が始まります。新たな週に平安がありますように。

 

今週の讃美歌

「いともかしこし」讃美歌502 - YouTube

 

 

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神を慕う

この前までの暑さはどこへ行ってしまったのだろうと思うほどに一気に気温が下がってきました。今週には、中秋の名月を眺めることが出来ました。いよいよ本格的な秋の訪れかと思っています。思ってみれば、いつしかセミの声も遠ざかっています。またセミの声を聞くことが出きるのは来年です。時の流れを止めることは来ません。その時々を後悔のない様に過ごして行きたいと思います。

 

 

来年の春まで日々寒さがつのってゆきます。そして日長も短くなる一方のこの時期は、心の中も委縮してしまう気がします。各々、置かれる立場は異なりますが、そうならないように努めなければなりません。

この世にある日々の生活には苦が伴うことが少なくはありません。もう駄目だと、もう限界だと思うこともしばしばです。しかし神は僕らを見捨てることなく救いの御手を差し伸べて下さいます。それはどういう形で現れるかは僕たちには判りません。神は死ぬほどの苦しみを与えられる方ではありません。喜びの日にも、悲しみの日にも絶えず祈り神とのつながりを持つことが僕たちへの救いに繋がります。天を仰ぎ、いつも祈り喜びの日々を重ねることが出来たとしたら幸いなことです。苦境に立たされた時、この世の制度には限界があります。所詮、人の定めた制度であるからです。この世は、人類の幸福のために神が創造されました。そこには無限の救いがあります。神は御子、僕たちの救済のためにイエスを十字架に掛けるほどに僕たちを愛されているのです。祈りは必ず形となって現れます。しかしそれが僕たちの意に叶うものとは限りません。どのような形であれ、それを受け入れ神への感謝を忘れてはならないと思うのです。人との比較の人生ではありません。創造主である神を知り神への思いを厚くすることが出来ることが僕たち信仰者の最たる恵みであると考えます。

明日からまた新しい週が始まります。新たな週に平安がありますように。

 

今週の讃美歌

契約の虹#159 こころみのよにあれど - YouTube

 

 

 

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