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時の流れの中で

 今日は時の記念日です。僕は、その由来は知りませんが、思って見れば僕たちは時間に縛られて生きているような気がします。刻一刻と時を刻む時計の針に身を委ねていると言ってもいいかもしれません。時は金なりと言う言葉もあるほどです。時間から解放されて、一日の太陽の動きの中で、のどかに暮らしてみたい気がします。聖書には厳密な時間の概念はありません。初めから、つまり天地創造の時から、終わりの時まで、つまり神の国の完成の時までを僕たちに教え記しています。これは創世記に始まり、ヨハネの黙示録で終わります。

 

 

 一週間の働きを終え、休みの前の晩から僕は時間の束縛から解放されるような気がしています。休みの日の晩からは再び、また明日から仕事が始まると思うと少しばかり憂鬱な気分になります。仕事は神から与えられたものです。本来なら喜びを以って心勇ましく立ち向かう心があって然るべきかもしれません。しかし、決して仕事が嫌いだと言うのではありませんが、それが出来ないのが僕であり、そのように思う人も少なくはないと思います。時は6月、当地は梅雨入りしました。アジサイの花の似合う時期です。自然の営みの中で、自然を慈しみながら心の中に余裕を持てる暮らしがしてみたい思いです。

 

聖書の言葉

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。<マタイによる福音書634

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27年目のアマリリス

 今春、浜松市在住の友人宅からアマリリスを一株貰ってきました。このアマリリスは、僕が浜松市を去る時に、僕の家の花壇に植えてあったものを、この友人に譲ったものでした。いわば里帰りしたアマリリスです。27年目に見るこの花は、僕の青春時代を思い起こさせます。古い友を、過ぎし日々を忘れてはならないと思います。ただ、そのことに縛られて前を見ることを恐れてはなりません。僕たちは、この先何があろうとも神が約束された未来への約束があるのです。今も活きて僕たちの内に働かれる神の約束は、今も昔も変わることはないからです。

 

 

 神はすべて僕たちに必要な物を与えて下さいます。神のなさることは、その時に叶って美しいのです。たとえ人の目に見て惨めに思える状況にあってもそれも神の意志の内にあるのです。聖書を紐解いてみても、苦境の裏には必ず神が回復を与えて下さっています。

人の心の内には、楽しいことより苦しいことの方が深く刻み付けらるものです。だからと言ってそのことで、自らが不幸だと思うのは短絡的です。僕も幾度となく苦しい思いをしてきました。そして今、確実なことは独りで死んでゆかなければならないと言う事です。しかし、未来への約束を示して下さっている神が共にいて下さる確信があるので恐れはありません。信仰とはなんと素晴らしいことでしょうか。信仰とは、神を仰いで生きることです。

 

聖書の言葉

 空の鳥を見るがよい。蒔くことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、誰が思い煩ったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思い煩うのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。

 しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 今日は生えていて、明日は炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくして下さらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思い煩うな。これらのものは皆、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存知である。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、明日のことを思い煩うな。明日のことは、明日自身が思い煩うであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。 <マタイによる福音書6章26〜34>

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幼児虐待に思う

 僕が幼いころは、どこの家でも3月にはカラスミを作り、6月にはホウバモチを作るのが習慣のようでした。季節のお菓子です。僕はそれを楽しみにしていました。既製品が出回るようになったのはいつの頃からかは分かりませんが、そんなころからか我が家でもその習慣は途絶えました。僕たちに食べさせようと手間暇かけて作る母の姿が今でも目に浮かびます。僕は子供を持ったことはありませんが、母の姿を顧みる時、親が子を思う心には何にも比べ難いものがあります。僕たち兄妹は、母から人としての生き方をこんこんと説かれて育った思いがあります。それだけ母に愛されていたのだと思うのです。今は亡き母に感謝を捧げます。

 

 

 昨日も、一昨日も親による幼児虐待のニュースが耳に入ってきました。一件は生後3か月の子供への虐待でした。理由は泣き止まないのに腹を立てたと言うのです。その女性は、母親に子供の様子がおかしいと連絡し、病院へ連れて行き、診察した医師から警察に虐待の恐れがあると通報され、事件が発覚したのでした。病院では「ソファーから落ちた。」と説明したとことでしたが、医師が診察すれば判るのです。昨今は、幼児虐待の話題が絶えない時代となりました。虐待によって、死亡する子供も珍しくはありません。親から虐待を受けた者は、その子供に虐待を繰り返すと言う報告もあります。結婚をしたら、先ず、親となる心得を習得しなければなりません。愛されるべき子供が、その親によって命を奪われるようなことはあってはならないのです。子供が親の愛を受けて、その命を育まれる環境を整えなければならないと僕は考えます。

 

聖書の言葉

妻たる者よ、夫に仕えなさい。それが、主にある者にふさわしいことである。 夫たる者よ、妻を愛しなさい。つらくあたってはいけない。 子たる者よ。何事についても両親に従いなさい。これが主に喜ばれることである。 父たる者よ、子供をいらだたせてはいけない。心がいじけるかも知れないから。僕たる者よ、何事についても、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、目先だけの勤めをするのではなく、真心をこめて主を恐れつつ、従いなさい。 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。あなたがたが知っているとおり、あなたがたは御国をつぐことを、報いとして主から受けるであろう。あなたがたは、主キリストに仕えているのである。<コロサイの信徒への手紙31824

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共に歩まれるイエス

 

 昨日、そして今日は初夏の趣の一日でした。奄美・沖縄地方は梅雨入り、国会はテロ等準備罪の強行採決で混乱、このような中で今週一番世間を賑わせた話題は、眞子様の婚約者の発表でしょうか。いつになく目出度い話題の様に感じました。婚約者の男性は今の時代には似合わないような、今もこのような青年がいたのかと思うような好青年に思えました。このような話題となると付きまとうのが、芸能レポーターです。僕はこの類の人がこの上なく嫌いです。馬鹿げた質問、人の心に土足で踏み込んでくるような態度。このような職にある人を可愛そうに思うのです。しかし、世間の多くは、このような人々の報道を今や遅しと待っているのです。世の中には必要とされているのです。どこまで真実かわからない週刊誌を楽しんで読んでいる人たちがいるのです。熱しやすく冷めやすいのです。僕は批判的ですが、そのことが悪いことだとは言いません。ただもう少し静かに見守ってやってほしいと思うのです。

 

 

 

 華々しい話題の陰には、世の中の片隅に身を隠すかのように生きている人がいるのです。

それはホームレスの方々を指して言いうのでありません。心を病み自らの殻から抜け出せないこと。大通りを歩むことを嫌い、世の中の隅っこを歩んで、その日一日を精いっぱいの思いで生きている人がいるのです。イエスは、このような人々と思いを一つにされ、共に歩まれました。「安心しなさい。私が共に歩む。」と言われるのです。イエスと共に歩む人は高望みをしません。イエスがそうであったように遜りの生涯を貫くのです。そしてイエスの心から醸し出される平安の境地が与えられるのです。この事こそ、僕たちが生きて行く上で最も大切なことだと思います。

 

聖書の言葉

 友を侮ることは罪。貧しい人を憐れむことは幸い。<箴言1421

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隣人愛

 今週の日曜日は、献堂1周年記念日でした。そのことを心に留め、谷の百合キリスト教会の名に因み、百合の花を贈って下さった方がありました。その方はクリスチャンではありませんが、キリスト教に寛容であります。届いた花の箱を開けて驚愕の思いでした。箱の中には色とりどりの百合の花が何十本と入っていたのです。その気持ちを有り難く頂戴いたしました。早速、礼拝堂に生け込み、百合の花の芳しい香りで礼拝堂が満たされるほどで、あまりにも本数が多いので、自宅の玄関と客間にも生けたのでした。

 

 

 僕にとって花との対面は、心和むひと時です。人の心を頂くと言う事は、何にも代えがたいものがあります。聖書の言葉に、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」と言うものがあります。

 この言葉は、隣人に対するキリスト教的愛のあり方を示しています。この戒めは一般に黄金律として知られています。論語に「己の欲せざる所、人に施すこと勿れ」と言うのがあります。これは通常思いやりの心と解せられています。思いやりの心もまた愛の心であることに変わりはありません。ユダヤ教の教師にもこれに似た言葉があると言われています。

 

しかしイエスは、この人間感情の機微を超えて、それを宗教的愛の感情に高められます。単に消極的な態度を積極的にするだけではありません。それはこの戒めに、これは律法なり預言者なり、と言う言葉が付けられていることによって分かるのです。律法と預言者とはイエスが廃止するためではなく、成就するために来られた本当の目標だったのです。
 そしてそれは溢れる義の道、すなわち、神によって導かれる愛の道だったのです。その愛がここに戒めの形で提示されているのです。「隣人を自分のように愛しなさい。」と言うのもこれと同じ意味です。

 

聖書の言葉

 人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。<マタイによる福音書7章5>

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食の恵み

 昨日は初夏を思わせるような日和でした。立夏にふさわしい一日でした。藤の花が見ごろになり、僕は藤の花の香りに気分を良くしたのでした。藤の花は夏の訪れを知らせてくれるようです。僕の畑の春の仕事も昨日で一段落です。今年もいろいろと植え付けました。

ジャガイモ、レタス、サヤエンドウ、オクラ、ミニトマト、サトイモ、トウモロコシ、・・・・・

などです。今年初めてマスクメロンの栽培に挑戦しました。普段では滅多に口にすることのない野菜です。まだ植え付けたばかりですが、収穫が楽しみです。

 いつも畑仕事をしながら思うことは、神が人に自ら地を耕し、自ら食料を得よと定められた創世記の記事です。僕の畑は、いわば家庭菜園のようなものですが、農業によって生計を立てたられている方の苦労を思うと、食物を祖末には出来ません。食物は命を繋ぐようにと神が与えられた物なのです。自ら食物を作ることが出来ない人は、その代価を支払って、買うと言う道が開かれています。そのためのお金も神が労働の代価として与えて下さったものです。いずれにしても、僕たちの人生は神なしには考えられず、神無くしては生きてゆくことは出来ません。

 

 

 明日の日曜日を以って、献堂一周年を迎えます。神の前に謙り、賛美と感謝の祈りを捧げつつ、日一日を重ねてゆきたいと思います。

 

聖書の言葉

「お前は顔に汗を流してパンを得る

 土に帰るときまで。

 お前がそこから取られた土に。

 塵に過ぎないお前は塵に帰る」<創世記3章19>

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沈黙の神

 昨日は初夏を思わせるような日和でした。この時期になると同門下の生け花を習っている方が蕨採りに訪ねて来てくれます。もう10年ほどの年中行事のひとつになっています。

この方とのお付き合いは、僕が名古屋で生け花を習い始めたことからのことでかれこれ30年ほどになります。おおよそ僕の母親ほどのお年ですが、同じ趣味を通しての交わりは心の内に穏やかな気分を醸し出します。

 僕が幼いころは、蕨は我が家の現金収入のひとつでした。5月の連休になると母は、朝早くから僕を連れて、蕨採りに出かけました。当時、蕨一束で20円から30円で売ることが出来たと思います。

 

 気象の変異のせいか蕨の出る時期が早くなり、芽を出すとすぐに葉を広げてしまってきているのを身を以って感じている僕です。自然は僕たちに様々なことを教えてくれます。今年はいつもの年と違うと思うことが数多くあるのです。それをないがしろにしていると自然は人に対して牙をむくことになる事だと思うのです。神が定められた地の法則が人によって歪められていると言う事です。先日には、クビアカカミキリムシが桜の木を食害し枯死させてしまう現実があることをTVで知りました。クビアカカミキリムシは中国に生息する昆虫で、中国からの輸入品に付着して国内に侵入したようです。これは日本だけの問題ではないそうです。また園芸種が野生化し、在来の植物を侵してしまっていることをも知りました。

 

 

 僕の住んでいる地域を見ても、昔いくらもあった植物が無くなったものも少なくはありません。昆虫にしてもそうです。今からでも決して遅くはありません。かつての状態に少しでも復古させることは出来るはずです。神から地を委ねられた人間は、その責任を負うべきだと思います。人がどうあるべきか、今も活きて働かれる神は、昼は物言わず夜は語らず人が何をなすかを沈黙のうちに見ておられるのです。

 

 人に害が及んでから対策を取るのでは遅すぎるのです。かつて3大公害と言われた公害は、その象徴です。神がご自身の像に似せて造られた人は、神の教えに立ち返らなければなりません。そこには、僕たちのとって忍耐のいることも数多くあると思います。その忍耐も次の世代に、この地を本来あるべき形に引き継ぐ責任なのです。

 

聖書の言葉

 動いている命のあるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。私はこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。<創世記93

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貧乏くじ

 一週間前の日、僕が学ぶ生け花教室の“師匠を囲む会”が名古屋で行われました。生け花を始めて35年余り。今でも稽古のために用意された花材との出会いは、いつも新鮮な気分を醸し出してくれます。会には30名余りが集まりました。同じ門下で生け花を学ぶ仲間たちです。思いを一つにすると言う事を改めて思い知らされ、懐かしい方々との出会いもあり、幸福な一日でした。この日のために、テーブル花がそれぞれのテーブルに用意され、閉会の時にくじ引きで当たった人が持ち帰ることになりました。貧乏くじは数多く引いてきた今までの僕の人生ですが、この日は特別でした。テーブル花が当たったのです。他に当たったものと言えば、郵便局のくじで一等賞が当たったくらいです。景品は扇風機でした。

 

 

 

 僕が引いてきた貧乏くじは、僕に定められたものだと思います。それは、僕の性分を知る神が定められたものです。思いあがることがない様にと。幸運が続くと人は思いあがる傾向にあります。それを羨んでみるのが人の心ではないでしょうか。どうして自分はこんなに惨めなのだろうかと、人との比較の中で生きるのが人の心理です。

 しかし、いつまでも惨めなわけではありません。この世で惨めな思いをしただけ、やがて訪れる新しい天と地で受けるものは、栄光に輝くものが備えられているのです。悲しみの裏には、喜びがあるのです。苦悩の裏には、希望があるのです。決して神は僕たちを見捨てはしません。栄光に輝く御国へと凱旋する日を待ち望みたいと思います。

 

 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、艱難さえも喜んでいます。それは、艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちによって与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。<ローマの信徒への手紙525

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喜びの復活祭

 明日は僕が待ちに待った復活祭です。イースターとも言います。復活祭とは、キリストが十字架に掛けられて死んだ後、3日目に甦られたことを記念するキリスト教の祝日です。

人は死んだらお終いではなく、その後にも神の救いがあり復活と永遠の命の約束があるのです。ですから人の死は悲しいものではありますが、忌むべきものではありません。愛する人との死別は、今までの人生を無にしてしまうようなものです。聖書には教えられていませんが、亡き人と再び会うことが出来ると言う可能性があるのです。それは神のみが知っておられることです。

 

 

 キリストは、人類最後の仇である死をも足の下に置かれました。死に勝利されたのです。ですから僕たちは死を恐れることはありません。今この瞬間に生きている僕たちの生きる目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。そして、キリストが教えられた、二つの戒めと神を愛し、自分を愛し、隣人をあいする三つの愛に生きることです。

 人は神が天地創造の時に、神のかたちに似せて創造されました。ですから創造主である神を慕う心が誰にもあるなずです。人はサルから進化したとか、輪廻転生と言う話を耳にします。いわゆる進化論や仏教の思想です。しかし、聖書が教える創造論こそが人生の意味を知りたいと言う心の渇きに応える唯一の道であると思います。

 

 生き物が眠りから目覚め息を吹き返し、神の定められた法則に従って神の栄光をあらわすこの時期、共にキリストの復活の喜びを分かち合いたいと思います。

 

 この朽ちる者が朽ちない者を着、死ぬべきものが死なないものを着る時、次のような言葉が実現するのです。「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」<コリントの信徒への手紙第一155455

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尊い命

 暖かな日が続くようになって加速度的に春めいてきたのを身を以って感じる僕です。桜の花が満開になった地域が19地点あるとのこと。殊に桜の花に日本人の心はひきつけられるようです。僕も26年前に家の片隅に、ソメイヨシノを植えました。昨年は八重桜を植えました。そして今年は河津桜を植えたのです。成長を楽しみにしています。僕は、これらの桜の木と共に年を重ねてゆくのです。

 

 このような長閑な中にあって、世界を見渡せばパレスチナ問題、シリアへのアメリカの攻撃、北朝鮮のミサイル発射など恐ろしい話題が絶えません。決して対岸の火事と言う風に安穏としていられないとおもうのです。アメリカの出方によっては、日本の米軍基地も攻撃の標的になり得る可能性があるのです。

 

 

 人が同じ人を殺すなどと言うことはあってはなりません。同じ神に造られた者なのです。神が造られたものの中で、同じ種同志が殺しあうのは、人だけではないでしょうか。国内においても、殺人事件がマスコミの話題にならない日がないと言っても過言ではありません。命の尊さを自らが知れば、人の命の尊さも理解できるはずです。この世は病んでいます。これは今に始まったことではありません。人類の歴史そのものです。

 

 一昨日は、官房長官が教育勅語を憲法に触れない限りにおいて、教育に取り入れてもよいのではないかとの発言がありました。わが国の将来を憂い得る発言と思いました。世界人類が平和でありますようにとの立札を街頭で見かけることがありますが、その根拠は別として、まさにその祈りに同感です。

 

 わたしの民よ、心してわたしに聞け。

 私の国よ、わたしに耳を向けよ。

 教えはわたしのもとから出る。

 わたしは瞬く間に

 わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。<旧約聖書:詩篇514

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