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少し難しい聖餐式の在り方

自然は時を知り、人の世とは関わりなく神の御業を僕たちに知らしめてくれます。それは自然が神に背を向けたことがないからであろうと考えます。しかし、自然が牙をむく時があります。自然と僕たち人類が調和しない結果であるのではないでしょうか。初秋の中、田畑では収穫に向けての作業が進められる時期となりました。喜びの収穫でありたいと思います。

今週は最後までの畑に残ったスイカを収穫し味わいました。年間を通して様々な果菜類が店頭に並びますが高価で買い求める気にはなれません。畑で作ることが出来る物は自らが作ること、僕の心情です。今、僕の畑に残っているのはキウイフルーツだけになりました。この収穫はまだ当分先になります。

 

 

明日は10月1日、日曜日から始まります。10月1日はキリスト教会が定めた世界聖餐日です。全世界のキリスト教会が日を同じくして主の聖餐に与かり、思いをひとつにしてキリストの恵みに感謝を覚える日です。しかしながら、聖餐に与かりたくても為すことが出来ない教会があることを忘れてはなりません。無牧、つまり牧師不在の教会が少なからずあるのです。経済的に牧師を招聘することが出来ないことが一番の問題です。そのような弱小教会は教会を閉鎖することも珍しくはありません。この様は理由で我が国の教会の数は減少傾向にあります。キリストを信じながらも聖餐に与かることが出来ない心情は虚しいものです。

 

聖餐の制定語

「私があなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを捧げてそれを裂き、「これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい」と言われました。 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、私の血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られる時まで、主の死を告げ知らせるのです。従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。誰でも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。」

 

教会では聖餐に与かることの出来る人は洗礼を受けた人か、幼児洗礼を受け、信仰告白を成した人に限られています。聖餐の制定語の中に記された、「誰でも自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです」。と言う言葉に起因するものです。しかしながら、洗礼を受けていない人、信仰告白をしていない人にも聖餐に与かることを認め執行している教会がある事実があります。教派によっては、洗礼を受けてない人、信仰告白をしてない人にも聖餐を認めた牧師を解任します。牧師は自らの考えではなく、所属する教派の規則に従わなければなりません。聖餐の制定語を重んじるべきです。この様な牧師は珍しくないと思います。少なくとも僕は、このような牧師を最大教派と言われる教会の牧師に2名知っています。洗礼を受けていようといまいと、キリストを信じる者すべての人が聖餐に与かることが出来ることがキリストに繋がることになると思うのですが、所属教派の規則に反してでも聖餐を執行しようとする牧師は、所属教派を離れ単立教会として独立した宣教活動を行うべきであると思うのが僕の考えです。

 

僕は、洗礼を受けていない方、信仰告白をしていない方が席を同じくして主の聖餐に与かることの出来る日を待ち望み願ってやみません。明日からまた新しい週が始まります。新たな週に平安がありますように。

 

【讃美歌205 わが主よ、今ここにて-日本語歌詞付き】RITAMY讃美歌集-癒しのパイプオルガン【映像×癒しの讃美歌】 - YouTube

 

 

 

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真の神

今日は仏教で彼岸の中日、また天文学では太陽が秋分点を通る日となりました。今週も日中は暑いものの朝夕は涼しさを感じられるようになりました。時期の花、ヒガンバナが咲いているのをあちらこちらで見られます。僕はヒガンバナと言うよりは、曼殊沙華と言う方が趣きがある様に思います。戦中は、このヒガンバナの球根から澱粉を採り食料にしていたと聞き及ぶところです。因みにヒガンバナは有毒植物です。

 

 

 

今週明けに、父方の叔父が天に召されました。97年にも及ぶ人生に幕が降ろされたのです。

叔父は若き日に教会に連なった者の一人です。葬儀は神道で行われましたが、出棺までは僕が執成しを行わせてもらったのです。親族、友知の死は言いようもなく悲しいものです。しかし亡くなった叔父には、この先への希望があるのです。人の人生は死で終わることはありません。召天、つまり天に召されることは神の御下に行くことを意味します。伯父はこれから天における人生が始まるのです。一般的に人は死んだらどうなるのだろうと言う不安を持ちます。死を恐れるからです。また、死者を不浄な者と考える傾向にあります。死者の家には忌中と貼られ、その家は一年間、忌まわしき家とされるのです。僕たちキリスト者は、聖書の記述に基づき喪中の期間を設けます。僕たちキリスト者は、既に一度死んでいます。そして甦っているのです。それは洗礼を受けた時です。これが第一の死と言ってよいと思います。同時に復活と永遠の命をも約束されました。僕たちの信じる神は様々な表現がありますが、今も活きて働かれる真の神であるに間違いありません。また明日からまた新しい週が始まります。真の神への祈りを携えて神の御前に礼拝を捧げたいと思います。新たな週に平安がありますように。

 

<人間の死後の状態について>

人間の体は、死後、塵に帰り、朽ち果てる。しかし彼の霊魂は死にもせず、眠りもせず不死の本質を持っているので、直ちにそれを与えられた神に帰る。義人の霊魂は、その時に完全に清くされ、最高の天に受け入れられ、そこで、彼らの体の全き贖いを待ちながら、光と栄光のうちに神の御顔を見る。また悪人の霊魂は、地獄に投げこまれ、大いなる日の裁きまで閉じこめられ、そこで苦悩と徹底的暗黒のうちにあり続ける。聖書は、体を離れた霊魂に対して、これら二つの場所以外には何も認めていない。終りの日に生存している者は、死を味わわないで変えられる。死人は皆異なった性質をもってではあるが別のものではない全く同じ体をもって甦せられ、彼らの霊魂に再び永久的に結合される。正しくない者の体は、キリストの力によって恥辱に甦せられる。正しい者の体は、キリストの御霊によって、甦せられキリストご自身の体に似るものとされる。

 

【讃美歌全曲マラソン】讃美歌15番 礼拝 讃美(我らのみかみは) - YouTube

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低き門

早くも今月も半ばにさしかかりました。日々の積み重ねを大切にしながら暮してゆきたいとおもいます。後悔のない日はないかもしれません。しかし僕たちには神から賜わった悔い改めの心が存在します。日々の行いを顧みて明日への力としたいと思います。しかしながら心の働きは複雑で、心に思ってもそれを行動に移すことが出来ないのが僕たちの弱さでもあります。我が心は定かならず、吹く風の如く絶えず変わると讃美歌に歌われています。

今週は、春に植え付けたジャガイモとカボチャを収穫しました。地よりパンを出だしたる神の聖名はほむべきかなの心持です。

 

 

年を重ねたせいか時折過去に親交のあった方々を思い起こすことがあります。学校を卒業して以来、一度もあったことのない旧友も大勢います。共に働いた方々も大勢います。その方々が今どうされているのかと思いを馳せるのです。若き日に共に働いた方々の中には、既に召天された方もあることだと思います。こんなことを思いながらオールド・ラング・サインを聞いています。オールド・ラング・サインは、懐かしい昔と訳されています。スコットランド民謡ですが、バグパイプの音色がしみじみと心に染みわたります。

幸いにも僕は今までの労働生活の中で良い方々に恵まれてきました。中には一人や二人、この人にはちょっと着いていくことが出来ないと思った方もあります。僕はそういう方とは距離を置いて過ごしてきたのです。これからもそうであることは間違いありません。生きて行く上で、人間関係ほど厄介なものはありません。誰もがそう思うことでしょう。特に僕が遠ざけた方は、頭の高い人です。上から目線で人を見て、あたかも自らが偉い者のように振る舞う人です。僕たちは主にあって同じ兄弟姉妹ですから高きも低きもありません。ただ異なるのは、神が人それぞれに与えられた能力、力量です。ですから出来る者は、出来ない者の分を補わなければならないのです。神は高ぶる者を退け、遜るものに恵みを給う方です。

そして、教会の門は低いのです。ですから頭を高くしては入ることは出来ません。今、自らを弱い存在と思っておられる方があるのであれば、その弱さを誇りに思うべきです。弱い者は、強くなることが出来る可能性を秘めています。弱いからこそ強いのです。そこに主が共におられるからです。医者を必要とするのは病人です。健康な者に医者は必要ありません。同じように主の恵みを必要としているのは僕たち弱いものなのです。また明日からまた新しい週が始まります。新たな週に平安がありますように。

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変わらぬ御心

今日は重陽、菊の節句です。中国の故事に倣うものと聞かされています。若き日に生け花の師匠から教わりました。死に至るまで僕たちが日々命を継続しているように、自然の営みは止まることはありません。神が最初に想像されたものは自然です。ですから僕たちは、この自然を維持し、守って行く義務があると思うのです。しかしながら人の業によって自然は破壊されてきているのが現状です。豊かで便利な社会は自然を破壊してきたのです。いずれの日にかその報いを受ける日が来ると思います。

 

 

 

僕たちが日々願うのは、日々の豊かさと幸福です。豊かさと幸福は僕たち自助努力によって作り上げるわけではありません。その陰には神の存在があります。僕たちはそれを忘れています。僕たちは自らの生活に満足できない心をも持っています。それは人との比較によって人の生活を羨ましく思う心があるからです。神は人を愛しておられます。それは僕たちは神ご自身が創造されたものであるからです。考えてみましょう。僕たちは自分の作ったものを大切にしないことがあるでしょうか。我が子を愛さないでいられるでしょうか。自分の子に愛情を注ぎ良き成長を願います。昨今とりだたされているのが、自分の子への虐待です。自分の子供をも殺してしますのです。悲しい現実です。旧約聖書の記録には、食料が無くなり、母親が「今日は私の子供を食べましょう。明日はあなたの子供を食べしょう」。と子供を食べたことが記されています。聖書は良いことばかりではなく、人の醜さをも赤裸々に記しています。この国の将来、世界の将来を担う子供たちは親の愛情を豊かに受けなければなりません。これは甘やかすこととは意味を異にします。そして親が豊かな教養を身に着けることです。世の中で一番惨めなことは、人間として教養の無いことですと福沢心訓には記されています。本当の豊かさと幸福は、物形に見えるものではありません。一人一人の心の内にあるのです。これは金銭や財力には代えがたいものです。現代の様にものが豊でお金さえあれば何でも手に入る時代よりも、皆が貧しかった時代の方が豊かな心があったと思います。貧困は辛いものです。しかし、どのような時代にあっても神の御心は変わりません。神は、一人一人に似合った道を備えて下さっているのです。その御心を知りたゆまず日々を重ねて行きたいと思います。

 

【讃美歌全曲マラソン】讃美歌15番 礼拝 讃美(我らのみかみは) - YouTube

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救い主イエス

僕の起床時刻は、5時です。以前は既に明るかったのに、今は薄暮となりました。夕方の日の入りも早くなってきました。コスモスが咲き始め、ススキの穂も出始めています。時は僅かながらに秋の気配を感じるようになったこの頃です。神が定められた天の法則、地の法則は永遠の古より永遠へと継続されてゆきます。異常気象が懸念される昨今ですが、これ以上人の手によって神の創造の業を歪めてはならないと思います。暑さ寒さも厳しいものがありますが、全ては僕たち人類の為に神が制定されたものであると思うのです。

 

 

 

僕たちは罪人であると言う意識が希薄な気がしてなりません。罪とは神に背を向けることです。そして心の内によからぬ思いを抱くことも罪であると思います。日ごとに自らの行いを省みて今日は神の御旨に沿って生きることが出来たかどうかを吟味するべきであると思います。そして思い当たることがあったとしたら罪の赦しを求めなければ泣いません。僕たちの心の内には、少なからずとも良心があります。これは神が与えて下さった悔い改めの心です。心の罪を打ち明けて一日を終わり、明日は清く生きたいと神に誓願する人生でありたいと思います。僕たちの心の中には欲がありますから、ことごとく清く生きることは出来ません。欲の代償として受けるものは死です。聖書は、欲が孕んで罪を産み、罪が熟して死を招くと明記しています。人からいくら善人と呼ばれる人であっても、罪を負い生きていることは間違いありません。僕たちは罪人であると言う意識が希薄なのです。欲の欲すままに生きているのが僕たちの実態です。その欲を捨てきることは出来ません。僕たちは所詮弱いのです。しかし、その罪を帳消しにして下さったのが十字架上で死を遂げたイエスです。イエスは生涯の内で何一つ罪を犯しませんでした。それは聖書が証しています。イエスの贖罪によって僕たちの罪は赦されました。イエスは、友の為に命を捨てること、これより深い愛はないと語っています。イエスは僕たちを友と呼んで下さっているのです。そして神は、僕たちを子と呼んで下さっています。イエスの死によって僕たちは律法の束縛から解放されました。しかし、このことを手放しに喜ぶべきではありません。僕たちは、日々罪を重ねて生きていることは間違いのないことです。このことを深く心に刻みたいと思います。清い生活などはあり得ませんが、復活と永遠の命が約束されています。この恵みに感謝し罪の赦しを祈りながら日一日を重ねて行きたいと思います。明日からまた新しい週が始まります。新たな週に平安がありますように。

 

 

讃美歌54番(歌詞付)54年版「喜びの日よ」 - YouTube 1〜2

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裁きの主

春先に蒔いたスイカが収穫の時期を迎えました。思えば長い月日でしたが日々の成長は目に見えなくても確実に成長を成していたのです。スイカ好きの僕にとっては感無量の思いです。最近は背面に忍び寄る秋の足音を感じています。ミンミンゼミの鳴き声と共にツクツクボウシが鳴き始めました。夜には虫の音も聞こえてきます。来週末はもう9月です。8月中旬にはペルセウス座流星群が見られるのですが、ここのところ2〜3年はこのことを忘れていました。過ぎてしまったことは仕方がありません。来年はこのことを記憶にとどめて天空を眺めようと思います。

 

 

 

さて、言うまでもありませんが人の心の内は百人百様、千差万別です。自己主張の強い人があれば、つつましい人もあります。人には負けまいと自己主張をする人を僕は遠ざけています。あたかも自らが正しいように語り、人を裁く傾向にあるからです。裁き主はただ一人、創造主である神の他ありません。何が正しく何が誤りなのかは人の尺度では測ることが出来ないのです。法律に基づく判断はありますが、所詮人の定めたことであり、神の尺度とは根本を異にすると思います。しかしながら、この世にある限りは法律が唯一最高の尺度であり、それに従うことが人の道です。創造主である神は、人の心の内を深く探り知られる方です。この神への畏れを忘れてはならないと思います。この神の御前には、一点の汚点も赦されることはありません。しかし、神は赦す道を開いて下さいました。それが悔い改めです。神の御前に出て、心の罪を打ち明けイエスの名によって赦しを願い求めることです。イエスの十字架の死によって僕たちの全ての罪は赦されました。僕たちに自由心を解放して下さったのです。だからと言って何をしても良いと言うわけではありません。常に神が傍らに立ち給いて僕たちの行いを見ておられるのです。この暑さの中ではありますが、陽の光の下で影のない日々を重ねて行きたいと思います。創り主であり裁き主である神に栄光がありますように。明日からまた新しい週が始まります。新たな週に平安がありますように。

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帰る家がある

大型の台風も当地には影響はなく通り過ぎました。被災された方々には、心よりのお見舞いを申し上げます。そして盆も過ぎました。子供のころは、母の実家に連れて行って貰うのが楽しみでした。子供ながらに祖母のことが好きであったからです。あの頃を懐かしく思います。心に美しい思い出を残すため、日一日を大切に日々の生活を送りたいと思います。

 

 

帰る家があると言うことは当然のことの様に思われますが、この世には帰る家のない方々がいる現実があります。朝家を出て仕事に就き、夕には家に帰ると言ことが当然のことの様に思われますが普遍的ではないのです。僕たちは帰る家があることに感謝を捧げなければなりません。家を出ても、最終的に行き着くところは家なのです。僕は死後との関係で、家を離れ居住地を転々としました。そして今、暮らしているのは実家です。マタイによる福音書に記されている放蕩息子の譬えの話においても、生前贈与を受け、家を出て放蕩の限りを尽くし豚の餌をも食べたいと思ったこの息子の行き着いた場所は家でした。普通に考えれば帰ることなど出来るはずがありません。しかしこの息子の父は、息子が帰ってきたことを喜び祝宴を催して、息子の帰還を喜んだのです。これが神の国なのです。イエスは言われました。「天にはあなた方の為の家がたくさんあります。」今家のない方々も必ず天の家に入ることができます。この世での生活が苦しくても、恐れることはありません。必ず神は、僕たちを受け入れて下さいます。その日を待ち望み、日々を重ねて行きたいと思います。明日からまた新しい週が始まります。平安がありますように

 

希望の差讃美歌488

新聖歌517 はるかに仰ぎ見る 讃美歌488 There's a land that is fairer than day - YouTube

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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主の祈り:日用の糧

今週、来週と台風に見舞われることになりました。気象の変動に因るものか、最近の台風は規模が大きい傾向にあるようです。学校に通っている頃は、大雨洪水警報が発令さると休校になるのでいささか嬉しい気分さえあったものです。今となっては災害をもたらす厄介なものでしかありません。幸いにも僕の居住地は、今まで台風の直接的被害に遭ったことはありません。台風近づくと僕の父は、家中の周囲に板を打ち付け台風に備えていたものです。伊勢湾台風を経験した父であるからこその予防的措置であったと思います。

 

 

食品の価格が上昇し、家計を圧迫しています。僕の家には少しばかりではありますが畑がありますので生鮮食品を全て買わなければならないことはありませんが、量的には知れています。トウモロコシは全てハクビシンの食害に逢い、新たに種を蒔き直し時期をずらして収穫を期待しています。3食の食事に与かることが当然と思っていましたが、世界を見ても、我が国を見ても貧困等の理由により、十分な食事に与かることの出来ない家庭があることに心を痛めています。最近ではフードバンクが出来たり食品ロスを少なくする傾向にあります。食事は神が与え給う尊いものです。それは命を繋ぐ源泉であるからです。子供に食事を与えず餓死させると言う事件も珍しくはなくなってきました。痛ましい事件です。イエスは僕たちに、「祈る時に、はこの様に祈りなさい」。と主の祈りを教えられました。その中に「日用の糧を今日も与え給え」。と言う節があります。金銭的に苦のない生活を送っている方々には普通の祈り出ると思うのですが、前述の様に金銭的に苦しい家庭においては、心の底からの切なる祈りであると思います。しかし、この祈りを知る方々すべてがキリスト者であるとは限りません。祈りは聞かれます。一人でも多くの方がキリストに出会い、主の祈りを知って欲しいと思います。福沢諭吉は著書。学問の勧めの中で、天は人の上に人を創らず、人の下に人を創らずと記しています。僕たちの信じる神もそうです。創造主である神は、人を等しく創造されました。そして僕たち人類の救済のためにイエスをこの世に遣わされたのです。全ての人に聖書の言葉は開かれています。しかし、それを知る人は多くはありません。

また明日からまた新しい週が始まります。全ての人に神が給う平安がありますように。

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分相応

毎日猛暑が続いていますが、来週は暦の上では立秋を迎えます。ドイツの友人に電話をしたところ、友人の住む地域では雨続きで気温も20度ほどであると言うことでした。羨ましくも思います。しかし暑い時期には暑く、寒い時期には寒くなければならないのではと思うのです。しかし近年の暑さは異常です。猛暑の次の言葉は、激暑になるのかもしれません。僕のおさない頃には、夕方になると決まって夕立があったものですが、昨今は夕立もありません。この先の気象の変動に憂いを感じます。

 

 

夏は花が少ないのですが、庭先にはムクゲが花を着けています。朝開いて夕には萎む一日花です。次々に咲いてきますので、いつも満開の様に思えます。マタイによる福音書には、野の鳥を見よ。野の花を見よと記されています。野の鳥、野の花をも美しく養って下さるのですから僕たちはそれ以上のものを神から頂いているのです。神から給うもので心を満たさなければなりません。しかし僕たちは欲を捨てることが出来ませんので、それ以上のものを求めます。分相応の恵みの中を歩むことで満足すべきであると思います。人がうらやましく思えることがよくあります。それはその人に与え給えた恵みなのです。うらやむことは心が貧しいからであると思います。また人より豊かに思い有頂天になることもあり得ます。これもあるべき姿ではありません。神はその分だけ恵みを奪われることでしょう。人の心の内は千差万別です。一番悲しく思うことは、豊かになろうと思う心です。これは誰もが持つ心情です。神は、人の心を深く探り知られる方です。僕たちに必要なものは、全て与えられているのです。心静かに自らの思いを顧みてみましょう。満たされていることに気づくならば幸いです。暑さの中、また新しい週が始まります。新たな週に平安がありますように。

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キリストの再臨

今月も終わろうとしています。まさに光陰矢の如しと言う言葉を実感しています。時には何も考えないでゆったりと過ごすことも大切なことであると思います。しかし、時の流れを止めることは出来ません。為すべきことは、為すべき時に行うことが賢明であると考える僕です。それを自然の移ろいの中で感じています。母はよく「土用の中に秋風が吹く」と言っていました。月が明ければ初旬には立秋を迎えます。自らが今為すべきことを吟味し、後悔のない日々を送りたいと思います。

 

 

 

3年前に教会員の方から頂いたムベに今年初めて実が付きました。毎年花は咲いていたのですが、結実には至りませんでした。花が咲く度に、今年は実が着くだろうかと思いつつ、半分はあきらめの気分で年を重ねてきました。待つことには忍耐がいります。ましてや果実は一年に一回しか実りをもたらせてくれませんから、今年駄目なら来年にと言うことになります。待つと言うことはその裏に、楽しみがついているものです。不幸を待つ人はありません。僕たちキリスト者は、将来に向けて大きな喜びを待ち望んでいます。それはキリストの再臨です。それはいつどのような形で現れるかは誰にもわかりません。ただキリストは言われました。「私は来る。報いを携えて」と。ですからキリストの再臨がいつ来ても良いように日々心していなければならないのです。もしかしたら明日にも起こることなのかもしれないのです。神の霊感によってなる聖書の言葉は、物語ではありません。僕たちを生かす糧なのです。明日からまた新しい週が始まります。神に喜ばれる行いを霊と真を以て日々を重ねて行きたちとおもいます。平安がありますように。

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